白川静『孔子伝』抜き書き1

白川静孔子伝』抜き書き1

孔子は巫女の生んだ私生児であっただろう。荘子もまた巫祝の子であった。
●もともと「述べて作らず」というのは、巫史の伝統であった。しかし、巫史の学には歴史意識がない。孔子はその学を、歴史的世界の場で、真の伝統に転化したのである。
儒家の経典とされるものには、おどろくべきほど葬礼に関する記載が多い。
●「儒」には蔑視的意味合いがこめられていた。孔子自身「少きとき賤しかりき」と言っている。・・・「儒」のもとである「需」は雨ごいをする男巫の形である。・・・儒の起源は遠く焚巫(雨ごいのために巫を焚すること)の行われた古代にまで遡る。
●殷の甲骨文字では、夷は仁と同じ字形に書かれている。それで儒家はもと、仁と自称していたのである。(孔子荘子も「夷」の人であった。)
●史もまた、古くは巫祝の徒であった。史は祭祀者であった。・・・史は、古事の伝承者として、語部としての一面をもっている。
孔子が(仁について)なんらかの具体的な規定を示さないのはなぜであろう。(「われ言ふことなからんと欲す」「四時行はれ、百物生ず。天、何をか言はんや。」)もし推測していうとすれば、それは芭蕉が、不易と流行との立体的な統一の場としての、「まことを責める」というほかなかったように、その伝統樹立の場としての、仁が考えられていたのであろう。
●人はみな、所与の世界に生きる。何びとも、その与えられた条件を超えることはできない。その与えられた条件を、もし体制とよぶとすれば、人はその体制の中に生きるのである。・・・体制が、人間の可能性を抑圧する力としてはたらくとき、人はその体制を超えようとする。そこに変革を求める。思想は、何らかの意味で変革を意図することろに生まれるものであるから、変革者はかならず思想家でなくてはならない。またその行為者でなくてはならない。しかしそのような思想や行動が、体制の中にある人に、受け容れられるはずはない。それで思想家は、しばしば反体制者となる。少なくとも、反体制者として扱われる。孔子は、そのような意味で反体制者であった。孔子が、その生涯の最も重要な時期を、亡命と漂泊のうちに過ごしたのは、そのためである。孔子はその意味では、圏外の人(だれが殺しても構わない人間)であった。(第3章 孔子の立場 冒頭)
●聖人孔子を「群不逞の徒」の中におこうとするこの試みについては、共感しがいたいとされる方も多いであろう。・・・ただ、哲人はつねに、その生き方を問われる。とくにその体制における生き方を問われる。その生きた時代のみでなく、いつの時代においても、歴史の上でそれが問われつづけられるのである。そしてそれを問うことは、またわれわれ自身の課題である。
孔子は永い亡命の旅に上った。教団としては、大きな発展が約束されている時に、たちまち挫折したのである。
 この挫折は、しかし孔子にとっては、むしろ幸いしたのではないかと、私は思う。
 この教団が士官の道に連なるというので、各地から入門者が相次いだ。・・・このままでは、今の大学のように、地方から若者を集めて、それを大都市に吐き出す集塵機に近い機関と化してしまうであろう。
●人は所与の世界に生きるものであるが、所与はその圏外に去ることによって変わりうるものである。また同時に、主体としての所与への関与のしかたによっても、変わりうる。むしろ厳密にいえば、所与を規定するものは、主体そのものに外ならないともいえよう。殊に亡命生活のような、体制の圏外にある場合に、主体はむしろその自由を回復する。体制の中では反体制としてのみ措定される可能性が、ここでは自由である。可能性は限りなく高められ、純粋化される。孔子が周公を夢にみることができたのは、おそらくそのときにおいてであろう。・・・思えば、この亡命ということも、また天命であったのかも知れない。


別件
 日曜日の毎日新聞に、ホークスの川崎が寄稿していた。ヘーッこんなことが言えるのかと思ったので、その大意を下に書く。
 「まず、一年間、真正面から正々堂々と闘ってくれた、パリーグ5球団に感謝する。楽天やロッテは、九州の我々からは想像もつかない苦難を乗り越えて野球に集中していた。なかには、親族や知り合いが被災され、野球どころではないと感じた人もいたはずだ。それでも、開幕が遅れはしたが、ペナントレースが真剣に行われた。野球は自分たちだけではできない。
 われわれも被災地に行ったが、むしろその被災者たちから逆に励まされ、こちらのほう勇気をもらった。
 この感謝の気持ちは、ホークスのひとりひとりが皆もっている。・・・」