白川静『孔子伝』抜き書き(2)

白川静孔子伝』抜き書き(2)

顔回は、孔子が道をもって許したただ一人の弟子であった。おそらく、孔子のいう仁を理解しえたのも、彼のみであろう。後年、魯にかえって顔回を失ったとき、孔子は「ああ、天、予を喪ぼせり。天、予を喪ぼせり」と長歎した。顔回はすでに、孔子の分身であった。
●『衛霊公篇』に 、「邦に道あるときは則ち仕へ、邦に道無きときは、則ち巻きてこれを懐(おさ)むべし」と言った語を録する。巻懐ということは、それまでの孔子にはみられないことであった。・・・
 また『述而篇』に、その時期は知られないが、孔子顔回子路との問答がしるされている。
 子、顔淵に謂ひて曰く、これを用ふれば則ち行ひ、これを舎(お)けば則ちか蔵(かく)るるは、ただ我と爾とこれあるかな。
 顔回に、その行蔵を師と同じゅうするということを許しているのであるから、これはおそらく、亡命生活も終わりに近いころのことであろう。
●真の精神的な共同体としての孔子教団は、顔回の死とともに、事実上滅んだといってよい。「天、予を喪ぼせり」と孔子は慟哭したが、滅んだのはその教団であり、教団の指導理念であった。
 孔子が没したとき、弟子たちは三年の喪に服した。それは孔子の伝記資料、言行の記録や整理に、十分な時間があったはずである。しかし、実際には、それらのことがなされた形跡はない。・・・孔子の教団は、おそらくすでに存在しなかったのであろう。その精神の継承者と目される顔回は、孔子より先に世を去ったのである。
子路は衛の難に死んだ。ひとり子貢だけが更に三年の喪に服した)
●春秋の末期は、古代的な遺制が崩壊して、はげしい流動をみせた時代であった。そこに、旧来の秩序からはみ出した社会階層が生まれた。儒家墨家も、その中から成立してくる。従ってその思想運動は、教団的な組織、あるいは結社性の強い集団の形態で行われた。
 孔子教団の性格は、そのような出発からいって、当然反体制的であった。孔子の指導するこの教団は、はじめ現実の場で政治を争った。しかし現実の場で争うことは、また対者と同じ次元に立つことである。その意味では、孔子の亡命は、この教団に新生の機会を与えるものであった。・・・天命・徳・仁というような儒教の根本思想は、その具体的な実践を通じてのみ、獲得される。これを体験的にとらえることは、実際にはおそらく不可能であろう。「人の知ることなき」(学而)世界である。そこに巻懐の道が生まれる。
 巻懐とは、所与を超えることである。そこでは、主体が所与を規定する。それは単なる退隠ではなく、敗北ではない。ましてや個人主義的独善ではない。その思想は、やがて荘周によって、深遠な哲理として組織される。儒墨が儒侠・墨侠に堕落してゆくなかで、巻懐の系譜はまた、思想史的に大きな役割をもつにである。──「孔子の立場」末尾──

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