限界集落便り

GFsへ
 2011/10/10
 
 飯塚の向かいの家のおばちゃんが亡くなった。88歳だった。幼なじみの3兄弟にとっては育ての親だった。
 連絡が入ったとき、まだ小学校のころに亡くなった最初のおばちゃんの顔がわっと出てきたが、すぐにあとのおばちゃんの顔にかわった。もう、もとのおばちゃんの顔がでてこない。記憶というのは不思議なものだと思う。
 向かいの家にはよく、ビー玉遊びをしに行った。インキョというゲームにはそれなりの広さが必要で、馬車が置いてあった土間がちょうど好都合だった。(大人になったから知ったゲート・ボールのルールは、インキョそっくりだった。)おじちゃんは日通で働いていた。小学校に入ったころまでは、まだ馬車が主力だった。我が家の前は主要道路で、いつも馬車が行き来していたので、道にはいくらでも馬糞が落ちていた。遊びに行ったときは、裏の小屋に繋いである馬を見るのが楽しみだった。ということは、もうトラックの時代になりかけていたのかもしれない。まだ、オート三輪が珍しいころだったと記憶しているが。
 おじちゃんの弟は個人の配達業だった。自転車に発動機を取り付けただけの、ほんとうの原付自転車に乗っていた。ペダルを漕ぐと、パタパタパタとエンジンがかかって動き出す。なんだかとてもカッコよかった。
 おばちゃんが亡くなったあと、あたらしいお母さんがきた。あまり社交的な人ではなく、向かいに遊びに行くことはなくなった。自宅でちいさなお茶やさんを開いたので、八女のひとかなと思っていたら、ほんとにそうだった。八女のタカツカというところからお嫁に来たのだそうだ。
 葬儀場の受付には中学生と高校生が立っていた。
──お孫さんですか?
──はい。
 女の子がうれしそうに返事をした。
 なんだかそれだけで、参列したかいがあった気がした。
 仲のいい兄弟で、オヤジの初盆のときは、三人そろって線香をあげに来てくれた。うえふたりは高卒で働きだした。末っ子は、たぶん兄貴たちが援助をしたのだろう、九大にいった。親の家を建て替えてやったのは、その三男坊の才覚だったのかもしれない。
 また一軒代替わり。
 こどものころ、おじちゃんとか、おばちゃんとか呼んでいた人がもうあの町内にほとんどいなくなった。兄ちゃんと呼んでいたひとが、現在の町内会長である。
 葬儀場が遠賀川沿いにあるので、しばらく川原でぼんやりしていた。産土という言葉を思い出した。われわれが帰るところはやはり土でありたいと思う。

別件
 タクシーの運転手さんの話。
 「80すぎのときに、お袋に認知症が出てですな。徘徊ですたい。苦労しました。4〜5年頑張りましたが、もう限界じゃ思うてグループホームに入れました。二階建てで、二階から下には勝手に下りられんごとなっとってですな。もう、久しぶりに夜安心して熟睡できました。
 親の面倒くらい家族で見らにゃぁち言う人もおりますがな。ああいうことは、自分がその身になってみんと分からんですたい。
 今年60になりました。
 いつまで生きられるか分からんとやからと、かかあと話してですな、もう年金をもろうとります。12万です。ばってんですな、少し前までは60から満額でしたでしょうが。いくら減っとると思いますか? 計算してみたとです。400万ですばい。400万もらい損なっとうとです。その上また減らすち言うでしょうが。もう腹がたってですな。あたし、文句の電話を入れてやりました。
 今に年寄りだらけになる位のことは素人でも分かっとったことでしょう?それが、なし立派な大学を出た偉い人たちにはわからんやったとでしょうかな?」
──今の大学入試には、常識があるかどうかを試すごたぁ問題はないとです。それで、常識もなあもない、ただ頭がいいだけのもんがいい大学に行って偉うなるとです。
──そげなもんですな?
 「いま、こうして働きようでしょ? ばってん、給料は安いとですばい。ノルマちゅうとがあってですな。一ヶ月の最低売り上げが30万ですたい。30万ちゅうとですな。一日1万5千円ですばい。こりゃきつい。それを達成できんとですな。一ヶ月8万にしかなりません。夜勤をちゃんと真面目にしても8万です。これから、どうなっていくとでしょうかな。」