純粋な現実

混沌という真について
2011.10.14

GFsへ

 白黒テレビ時代の『ベン・ケーシー』で、待合室で順番を待っている初老の患者が言った「男は自動巻腕時計といっしょだ。体を動かさなくなると、中身までおかしくなる。」というセリフの話は前にもした。
 昨年の12月ごろだったろうか、ものすごい疲労感に襲われた。それは怖いくらいだった。
 「いったいオレがやっているらしいキョウイクちゃ何か?」それが突然わからなくなった。いや別に、それまで分かっていたわけではない。ただ何かをむりやりしている間は、そんなことを考える必要がなかった。さまざま多様な現実に反応する基点のようなものが、自分のなかにあることには自信があったから。その基点のようなものの感覚、手応えが消えてしまったのだ。ということは、自分が何をやっているのかが分からなくなったということでもある。
 ほとんど、ぞうっとするほど絶望的になりながら最後の数ヶ月をごまかした。ただただ誤魔化した。そのときの恐怖感は忘れようがないし、若い同僚たちへの負い目のようなものは、いまだに引きずっている。だから、その後の畑仕事と昼寝に終始する毎日には、深い安堵感があった。「もうあそこに戻らなくてすむ」あの時期に味わったものが何だったのかは、いずれゆっくり考えてみればいい。
 8月に須恵高校の話が舞い込んだとき、ためらいがあったし、自信がなかったのは、だいたいそういうことによる。
 じゃあ今、「教育」についてどう考えているのかというと、べつに何も考えていない。考える必要を感じない。かといって、なんの自信がよみがえったのでもないし、恥ずかしさを表にださないようにするだけで精一杯エネルギーを消耗している気がする。ただし、次世代に伝えるべきことを伝えようという、教員になりたての時の気持ちが甦っているようではある。
 なにか、たいせつなこと、たいせつなものとは、そういうことなんじゃないか? 今日話したいのはそういうことだ。
 そういうこと、とはどういうことかというと、
 これははるかな昔話になるが、千日回峰を成し遂げたひとが、も一度千日回峰に挑むという話をテレビで見たことがある。大名時代だったと思う。「歩いているとき仏様のちかくにいるような気がしていたが、終わってみるとその感覚が消えてしまった。それがさびしい。」から、も一度やるのだという。
 例によって、突然ショートカットするが、「真理」というものもまた、もともとからそういうものだったんじゃなかったのか。
 「真理」という概念はある。が、それはいわばただの「ことば」があるだけだ。いくら考えても、いくら追いかけても、真理を言語化したり、捕縛したりはできない。本当の真理、荘子のいう「真」は、茫々としたイメージ、ことばとはなり得ない気配だったはずだ。「混沌」とはそういう意味での「生きている真」のことだった。その気配は、こちらがやみくもに動いているときにしか感じられない。面壁百年でも決してその気配は向こうからはやってこない。
 われわれはいつも、その、なんとなく、の真を感じながら、それを感じていることさえ意識にはのぼらない状態で自足している。体を動かしている間は。
 どうも、そういうことらしい。
 ただもう、さすがに動くのが大儀になってきた。

別件
 ジョン・クラカワー『荒野へ』のなかで、アラスカで餓死した主人公クリスについて、次のように語っている知人がいた。
──あいつは、仏教徒が言う「純粋な現実」に出会いたかったんじゃないのかな。──佐宗鈴夫訳──
 純粋な現実、それが荘子のいう真のことだと、いまは思う。