技術と判断力

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2011/11/03

 旭川から来た千葉大生に会ったのは、もう40年以上まえ。工学部だと言うので、何を勉強しているのかと訊くと、流体力学だと言う。
──そんなもの、高い所から低いほうに流れるに決まってるじゃないか?
 とても、それが学問だとは思えなかった。
 オレがそう言われたほうなら、カッとなって、そこらへんにあるものを投げつけたかもしれないけれど、彼は実に温厚な性格で、
──それが、流すものの性質や、容器の材質によって、けっこう難しいんですよ。
 なんでそんなことを覚えているのかというと、その後、水洗トイレなる文明の利器を使うようになってから、そのときの千葉大生の言葉をなんども思い出し続けているからだ。
 「そうか。流体力学か。」
 ただ、水を流すだけで、対象となっている物体が、じつにスムーズに消えていく。
 とくに、今年になって新しい便器を据えなおしてからは、前の半分くらいの水しか出ていないのに、まったく跡形も残らずに消えていく。べつに、こっちの出しかたが上手になったはずもないから、そういうふうに作られているのだ。
──すげぇ技術だな。 
 工学に限らず、いまの社会を成り立たせているのは、実にさまざまな技術なのだろう。われわれの文学なぞは、いわば付け足しみたいなものだ。いや、せめて調味料だの出汁だの灰汁くらいの役割は果たしているのかな、などと思っていたら、堀田善衛が次のように書いているところにぶつかった。

『ミシェル 城館の人』第一部

「〈戦争や政治〉もまた人文学の重要な教養課程でなければならないのである。教会の教理やドグマが全世界理解の原理であった時代は、すでに完全に過ぎ去っている。教理やドグマにすべてを託すことが出来るとならば、いっそ気楽というものであった。
 ギリシャの詩に、
  判断力を伴わない学問が何になるか
  とあるように、
  分別がなければ、学問は何の役にも立たないからである。
 ・・・人文学はギリシャ・ローマの古典学習を通じて、それまでの学校のための学問や、金儲けのための実用学問の根本的改革を目指したものであった。」
「文化は如何なる時代にあっても綜合的な基盤の上に成立するものであり、政治や経済などと切れたことろにあるものではない。〈戦争や政治〉と切れたところにある文化は、やがて貧困化していくであろう。」
 第一部第十四章は、モンテーニュのことばでしめくくられている。
「われわれは自然の無限の力を、もっと多くの畏敬の念をもって、またわれわれの無知と無能を、もっと多くの認識をもって判断しなければならない。いかに多くの、ほとんど本当と思えないことが、信頼に値する人々によって立証されていることであろう。だが、そういうものについて、納得できない場合には、少なくともそれを未決のままにしておかなければならない。」
いや、そのあとに、筆者がこう附け加えている。
──断言することだけが思想家の任務なのではない。〈未決のまま〉にして、それを胸中に置いたまま生きることのほうが、はるかに勇気を要するのである。

別件
 夕方の散歩のとき、クリークの葦の茂みのなかから、チョチョッ、チョチョッという幼鳥の鳴き声が聞こえてきた。鴨の雛がもう孵ったわけではないだろうにと思いつつ家に帰ったら、裏山からも同じ鳴き声が盛んに聞こえてくる。
 この世は幸に満ちあふれている。たとえいつかまた、あの東日本のような災厄に見舞われることがあるとはしても。