中谷美紀『猟銃』

                         2011/11/20
IS氏へ
 
 今朝は、今週はじめてチビたちといっしょに起き出しました。なにしろ、仕事の日は暗いうちに出掛けますし、仕事のない日は9時ちかくまで寝ていますから、今週は毎朝カミさんがチビたちの面倒をみていました。
 一足先に玄関からでておしっこを済ませると、もう、
「鬼ごっこをしよう」
「朝からか?」
 けっきょく家の回りを2周したら満足しました。しばらく、お父さんと遊んでいなかったので、ストレスがたまっていたのでしょう。
 いまは、私の部屋で、一匹は横になり、もう一匹は毛繕いをしています。静かな日曜日です。

 『猟銃』を観ました。今日、すっきりと目覚めたのは、そのせいだと思います。お芝居というものの持つ、異時空間に2時間浸りきっていることができました。ほんとうに久しぶりのことです。歌舞伎や能ではない、われわれの学生時代の呼び名でいう新劇をこのまえ観たのは20年以上まえです。「もういいや」それ以来まったく興味がわかなくなっていました。(例外がひとつだけありました。村田喜代子『蕨野行』を北林谷栄が演じたのだそうです。それを知ったのは彼女の訃報を聞いた後でした。それは観たかった。いや、聞きたかった。映画の・・・名前が出てきません。千葉県出身の女優さん(市原悦子)も悪くはなかったのですが、、、しかし、それもまたモノローグだから観たかったのだと思います)今回の誘いも、一人芝居でなかったら、その気にはならなかったかも知れません。
 でも、私は、中谷美紀のファンクラブには入りそうにないな。
 今日は、そんな話をします。
 見はじめて、「あれっ?」と思いました。小説のなかの言葉の持つ静謐さがないのです。その違和感は、妻のところに入ってから更に強くなりました。最後の遺書がわりの手紙になって、すこしほっとしましたが、やはりそこには情念が溢れていました。
──演技ちゃそげんもんじゃなかろう?
 私の率直な感想です。
 もう5〜6年前になりますが、自分のクラスで授業をやっているとき、ある生徒が「先生の授業は面白くない!」と言いました。「オレたちがせっかく考えようときに、もうオチを言うてしまう」私はその生徒の将来を楽しみにしています。いま大学4年生のはずです。就職先は決まったのかな。
 中谷美紀が観客にみせたものは「説明」です。それでは観客は自分の想像力を働かせることができません。本当の演技とは、もっと抽象的なもののはずです。そうであるとき、はじめて観客はその登場人物の内面に吸い込まれていくのです。
と同時に、演じられている人格を自分のなかで甦らせることができます。井上靖の小説を読んでいるとき、私はその三人の女性の風貌を見、声音を聞いていたはずです。が、それらは劇場を出たとき消えていました。残っているのはただ中谷美紀。それは「お芝居」ではありません。むしろ、「ショウ」に近いものです。
 少なくともひと時代まえには、私が思うほんとうのお芝居がありました。そういう徹底的に自分や感情を抑え込んだ演技のできる俳優たちがいました。(ただし、いま、そんなお芝居ができたとして、はたして観にくるお客さんがどのくらいいるのかは知りませんが)
 そういう抽象性を保った演技によって、演じられている人間の輪郭がくっきりと観客に見えはじめます。輪郭が見えはじめてはじめて、その人間のなかの情念を感じ取れるようになっていくのです。第一、中谷美紀が演じたような人間は、現実にはどこにもいないでしょう。あまりにも生活感に欠けた人物造型に思えます。「いったい誰の演出なんだろう」と、かえりにポスターを見ましたが、知らない人でした。
 私がいまいちばん好きな女優さんは、イギリスのヘレン・ミレンです。彼女の抑制のきいた演技なら安心して見ていることができます。ヘレン・ミレンではなく、彼女が演じている人格を想像しつつ見ることができます。(じゃぁ、ヘレン・ミレンに娼婦が演じられるのか、という質問が聞こえてきそうです。それは分かりませんが、『風とともに去りぬ』で娼家の女主人を演じていた女優さんには品格がありました。そこに私はほんものの娼家の主人を感じました。そういう「格」のない人間は現実には存在しないと思います。その「格」を、「型」と言い換えてもいいと思います) 日本にもそんな名女優がいました。俳優座の村瀬幸子、文芸座の杉村春子岸田森の配偶者で劇団四季三田和代。(別格で好きなのは、メリル・ストリープ。年をとるごとに増してくる彼女のしっかりとした生活感をともなうはなやかさには、うっとりします。そのメリル・ストリープの『めぐりあう時間たち』─原作はヴァージニア・ウルフ『時間たち』─は、このごろ見た映画の中で大満足のものでした)
 そうでした。「このお芝居を杉村春子で観たかったな」それが正直な感想でした。その杉村春子にさえ、若い頃の私にとっては「女」が外側に出すぎていて、辟易していたのですが。
 中谷美紀の才能を愛しみます。なろうことなら10年後、20年後、30年後、その節目ごとに『猟銃』を再演してほしいものです。その経験のなかで彼女自身に見えてくるものがあるはずなのです。

 なにか、まとまりがつきませんので、かっこつけですが、最後に、お芝居をみていて思い出した斎藤史(斎藤劉少将の娘)の短歌を書きます。

 雪原に孤絶の点となりし鳥生きもののさびしさにむしろ猟銃が欲し  

 今年は、いつかどこかで、二人の忘年会かクリスマス・パーティーかをいたしましょう。連絡があるのを楽しみにしています。

別件
 昨日、2週間ぶりでグループ・ホームに行った。なんだか母親は感動していた。
──帰りなしゃい。
 来た早々、「帰りなさい」はないでしょう、と介護士さんが笑った。が、違う。気持ちが高ぶりすぎて、最初にあるべき「お」が出てこなかっただけなのだ。
──うん、ただいま。