仏を感知したかったらチャペルに行け

2011/11/24

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 23日の祝日に、ホテル日航の結婚式用のチャペルで、オルガンの演奏会があるというのでいってきた。不思議な経験だった。
 まず、音が後ろから聞こえてくる。前方にあるのは空間と十字架。聴衆は40人とはいない。ほとんど、まばらと形容したいくらい。が、後ろから発した音は(パイプオルガンがあんなに多彩な音色をもっているとは思っていなかった。演奏者〈池田泉〉の腕も確かなのだろう)高い天井のどこからか回ってくる。
 視線をどこにやったらいいのか分からないので、天井ばかりみていた。せまい空間なのだが、天井はやたらに高く感じる。その穹窿に目をやっているうちに、「こりゃ、仏はおるな。」と思った。神じゃない。仏のほうが「大いなるもの」にふさわしい。なぜそうなるのかと理屈をつけるなら、たぶん、ジーザス・クライストが邪魔をしているのだ。カソリックプロテスタントの角逐の時代を背景にした『城館の人』を読みかけているせいだったかもしれないが、けっこう確信的にそう思った。
 ただし、仏の所在地はチャペルの中ではない。どこか遠くだ。
 キリスト教を理解しようとする場合、われわれは「神」と書かれているところをただ「仏」と読みかえさえすればいいんじゃないかな。それだけで分かることが、きっとたくさんある。いいじゃないですか、そう思ったのだから。
 そのほかにも、演奏があっている間中、なにか考えつづけていた気がする。そうだな、ああいう、狭くて高い空間というのは、も少しあっていい。気に入ったので、1000円はらって、そのチャペルでの音楽会の会員になってきた。

 さて、あとはまた、孫引き集。
 「私がここ〈ローマ〉やその他の地において見たもののうち、もっとも立派で見事なものは、この日、信心からこの町に集って来る信じられぬほどの大群衆で、わけてもこれらの兄弟団をなしている人々である。何故かというに、われわれがその日の昼間にサン・ピエトロへやって来るのを見た大勢の人々に加えて、夜になるにつれてこの都は灯下で埋まるように見えた。これらの兄弟団は隊を組み、手に手に松明をもち、またほとんどの人々が白い蝋燭をもってサン・ピエトロへと進んでいく。私の前だけでも、少なくとも一万二千の松明が通ったと思う。」
 この行進の中程には、自分で自分を鞭打って血を流している苦行の連中もがいた。
 けれどもこの苦行連は、よくよく見てみると、
 「彼らの靴や股引を見ると、極く低い階級のもので、少なくともその大部分は、この勤めのために身を売っていることは明らかである」
 すなわち、金持ちや貴族が自分の罪を贖うために、貧乏人に金をやって苦行の代行をさせているのであった。

 17ヶ月の旅行のあと戻ったボルドーは、戦争と飢饉とペストに襲われ荒廃しきっていた。
 「今時の人々は、興奮と目立ちたがりの中ばかりで育てられているので、善良さや節度や恒常さや不変性などの、静かな目立たない性質に不感症になっている。ざらざらごつごつしたものは感じられるが、なめらかなものは触っても感じられない。病気は感じられるが、健康はほとんど、あるいは全然、感じられない。会議室で出来ることをわざわざ広場に持ち出したり、前の晩にすれば出来たことを真昼間にしたり、仲間の者でも立派に出来ることを自分でしたがったりするのは、自分の名声と利益のために動くことであって、公共の幸福のために働くことではない。」
 が、そんな中にあって、彼は、下層民に「哲学者よりも哲学的確信」を見る。
 「各人はひとしく生きるための心遣いを捨てた。・・・わずか数時間の違いで、誰かと一緒に死ねると考えるだけで、死の不安が違ったものになるのである。・・・私は、ある人々がかえって生き残ることを、恐ろしい孤独の中に取り残されるかのようにこわがるのを見た。また、一般に埋葬のことしか心配していないことを知った。彼らは野原の中に散らばった死骸に、たちまち野獣が群がって食い散らすのを見るのが辛かったのである。・・・ある者は達者なうちから墓の穴を掘っておいた。ある者は生きながらそこに身を横たえた。私の家の小作人の一人は死ぬときまると自分の手と足で、自分の上に土を掻き寄せた。・・・自然は彼に、死にかけたときでなければ詩を考えるなと教えている。そしてそのときでも、彼の姿は、死そのものと、長期にわたる死の予想とで、二重に攻め立てられているアリストテレスよりも美しい。」〈第三部 精神の祝祭〉
 『方丈記私抄』の作者は、その後も「乱世」を見つめる姿勢をゆるめることはなかったようだ。
 もうすぐ読み終わる。読み終わったら、『広場の孤独』にもどろうかと思う。そうでもしないと、踏ん切りがつきそうにない。

別件
毎週水曜日の「詩の日」に、山本太郎の「街を歩くと」を配った。ただ配るだけ。ピンチの男の子がぶつぶつ声を出して読んだ。

街を歩くと
人間はいつでも
どこかへ行こうとしている
人間はいつでも
「途中」なのだ・・・・・・
    
        『歩行者の祈りの唄』

──なんか、お前のことみたいやろ?
──・・・うん。
 その日、かれは集中して試験勉強をした。
──××、何ごと?
 冷やかした級友に、にやっと笑って親指をたて、また勉強しはじめた。

 野呂邦暢の詩集を開いた。その冒頭の詩。これは、いつ配るのに向いているだろう。

  青春    野呂邦暢

中国大陸東北平原の
河北省北西かに
大いなる
(と地質学者は報告する)
大いなる
地下湖が発見された
渤海より広い という
友よ
君が胸の裡なる海
その深さを
測れ
『夜の船』より