還暦すぎて『オンディーヌ』


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2011/11/30

 何でそういうことになったのかは、もう忘れたが、今週『オンディーヌ』を読んだ。(光文社 古典新訳文庫 仁木麻里訳)読んでいて心がふるえた。ふるえすぎて、現実にうまく対応できなくなっていた。胸が痛くなった。胸が痛くなって食欲を感じず、月曜日は昼飯ぬきでちょうど良かった。
 15歳の水の精オンディーヌが人間の若者にあっという間に恋をし、他の精霊たちの怒りをかってしまう。その若者には故国に婚約者がいたのに、彼もまた一瞬のうちに心を奪われる。オンディーヌは、若者を精霊たちから守るために、あらゆる手を尽くす。しかし、愚かな人間の若者は、けっきょく命を落としてしまう。しきたり通りに人間としての心を喪って、また精霊に戻りかけながら、オンディーヌは横たわった若者をみて、言う。
──待って! この若いひと、きれい。 この台のひと。これ誰?
・・ハンス
──すてきな名前。なんで動かないの?
・・死んだから。
──このひと好き。生きかえらせるってできない?
・・できない。
──すごい残念。ぜったい好きになったんだけど!
 書き写しながら涙が出てくる。これって何だろうね。
 ジロドウは『竹取物語』を、どこかで読んでいたのではないか、とさえ思う。
 どうしようもない予め定められた悲劇なのだけど、(あらかじめ定められていなかったのなら悲劇とはいわないかもしれないけれど)軽々としている。まるで羽毛のように軽い。そよ風でも吹いたらどこかに飛んでいってしまいそうに軽い。だのに、きちっと舞台の決められた場所に、このお芝居は居つづける。きっと、ものすごい力量が創りだしたものなのだろう。
 Fにはメールで、人間のなかには不条理への渇仰があるのではないか、と書いた。その渇仰に年齢は関係なさそうだとも書いた。その渇仰を刺激されたとき、ひとは笑い、ひとは泣くしかない。
 東北大に行った卒業生が、あるとき「映画を作りたい。それも喜劇を作りたい」と言ってきたことがある。そのご彼は、東大の宇宙研究所とかいうところに行くことになったと連絡してきたのが最後で、あとは音信不通になった。あのとき、あいつは何を考えていたのだろう。いや、何を欲しがっていたのだろう。
 戦時下の日本で、熱に浮かされたようにジロドウについて語り合い、、それを舞台化しようとした若者たちがいた。
 (そのことについて矢代静一〈『絵姿女房』や『夜明けに消えた』の作者〉の回想録があると知った。近いうちに読んでみたい。加藤道夫だけでなく、芥川比呂志三島由紀夫のうら若い頃の姿が描かれているはずだ)
 そのグループに南方の激戦地から戻ってきた加藤道夫が合流し舞台は実現した。その加藤道夫の『なよたけ』は、『オンディーヌ』の双児だったのだな。ただ、日本の風土では軽みは備わらず、ただひたすらな「喪失劇」にならざるを得なかった。
 加藤道夫の姪の加藤幸子(北大農学部卒だそうだ)は、中国から引き揚げて親の家に住むことになったときのことをのちに書いているが、加藤道夫の沈鬱さと、その配偶者である加藤治子の華やかさを実に冷めた目でさらっと描いている。
 思い出したから余計なことを付け加える。
 その加藤幸子のごく初期の小説は、中国の家で木に登って遠くを眺めている少女の姿からはじまっていた。まるで『お花はん』の冒頭のシーンみたいだが、すでに熟したお花はんとはちがって、少女はまだ青さに満ちたすっぱい匂いのする年ごろだった。その少女がのぼった木が「槐(えんじゅ)」だった。どんな木なのだろうと思いつつ、30年くらいたって、数年前信州に出かけたとき初めてその木をそうだと分かって見た。あれは村山槐多のデッサンを見にいく途中じゃなかったか。それでわざわざ「無言館」の主人は槐を植えていたのだろうか?
 思い出しついでに、もっと余計なことを書く。
 加藤治子たちがまだ貧しかったころ、稽古帰りに神田神保町の喫茶店に寄った。「いいおじちゃんとおばちゃん」で、寒い日などは二階の居間に上げてくれて、お汁粉をご馳走してくれたりしたと回想している。その喫茶店は、5冊百円の文庫本を買ったときなど、チクゴタロイモが足をのばして長居をした喫茶店だった。終わりがけに寄ったときは、「おじいちゃんがどうしてもと自分で自転車にのって銀座にまで珈琲豆を買いにいくから、あたしもう怖くって」とおばちゃんが言っていた。その後、息子が後を継いでいると誰かが教えてくれたけど、まだ開いているかしら。ひょっとしたらその店で、19歳の野呂邦暢が珈琲一杯で半日ねばっていたのではないかと思い始めている。
 自然と人間との恋。けっしてかなえられない恋。『鶴の恩返し』もまた同じパタンだ。『羽衣伝説』もまたそうだ。仁木麻里の解説によると、『オンディーヌ』にかかわる神話や民話はケルト系のものなのだという。キリスト教以前の説話。それがヨーロッパの辺境に残り、人々の魂を刺激しつづけてきた。その刺激をうけた『かぐや姫』や『鶴の恩返し』や『羽衣伝説』を伝承してきた日本先住民の子孫は現実と接触するのが不安になるほど動揺してしまった。
 辻褄を合わせるなら、そういうことだったのだろう。
 愚かな若者の訴えにもとづいてオンディーヌを裁こうとした裁判官たちは次のように言う。──被告、水の精であるこの女は、その本来の性質を捨ててわれの世界に入りこんだ咎はみとめられるものの、そこにたずさえているものは、ただ愛と善良さだけであるとみとめられる。
──それも、いささか度がすぎる愛ですな。人生でこのような愛をいだけば、生きることが重くなるだけ。   
 11月のはじめ、名門カーフェリーで歌劇の一場面を演じた大阪芸大の若者に、カラオケでいいから歌劇の名場面集をもって日本中を回らないか、と声をかけた。
──いま、それをやりかけているんです。よろしくお願いします。
 お芝居もそうだ。舞台装置をまともに作ったり、衣装をわざわざあつらえたり、劇場をまるごと借りたりするのではなく、ささやかな場所で、ほぼ朗読に近い「暗誦劇」がやれないだろうか。『なよたけ』も『オンディーヌ』も、俳優に一定の能力さえあれば、そして観客に一定の素養さえあれば、その劇はじゅうぶんに鑑賞にたえうるものでなるはずなのだ。

 最後に、王妃イゾルデがオンディーヌを諭すことばを書き写して、今日は店じまいにする。
──でも、魂がなくて問題になるのは人間だけなのよ。人間ではないどんな生き物にとっても、それは問題にならないの。だって世界の大きな魂は、馬たちの鼻から吐き出されて、魚たちのエラから吸いこまれている。でも人間はひとりずつ、めいめいの魂をほしがった。みんなの大きな魂を、ほんとうに愚かに、こまぎれにしてしまった。人間たちには、みんなの魂というものがないのよ。魂のこんな小さな分け前が並んでいるだけで、そこからは貧相な花や貧相な野菜がはえてくるだけ。あなたが持つにふさわしいような、人間のすべてがこもった魂、すべての季節がそこにあって、風そのものがあって、まるごとの愛がある、そういう魂は、ほんとうに稀なものなの。この宇宙のなかで、この時代のなかで、たまたまひとつだけあった。でもほんとうに残念、それはつかまってしまった。

 しかし、オンディーヌは言い返すのだ。
──あたしぜんぜん残念じゃないです。

別件
 夕方の散歩の帰り、近所の娘さんが、子どもを三人つれて里帰りをしてきた所に出会った。赤ちゃんと、3,4歳の男の子と女の子。その男の子がちっちゃい犬をつれたおじいちゃんを見つけて、
──こんにちわ。
 と大きな声で言ってから、おかあさんに
──ね、こんにちわって言ったよぉ。
 と報告している。するとおねえちゃんが、
──いまは、こんにちわじゃないと。
 と弟に言って、
──こんばんわ!
 弟も負けん気を出して
──こんばんわ!
──はい、こんばんわ。
 あかちゃんを抱いたまだまだ若いおかあさんが笑いながら挨拶を返した。