楽しみもて汝の酒をのめ

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2011/12/03

空しいことの空しさ、とコヘレットはいう。
空しいことの空しさ、すべては空しい。
この世の労苦から、人はどんな利益を受けるのだろう。
一代が去り、また一代がくる。しかし、地は永遠に変わらない。
日は昇り、日は沈み、そして、また元のところにかえっていく。
風は南に吹き、また北に移り、めぐりにめぐり、その行き来を続ける。
川はみな海に流れるが、海は満ちることがない。
川はいったん入ったところに、また立ちもどっていく。
すべてがものうい。
目は飽きるほど物を見、耳は飽きるほど聞いた、という人はあるまい。
すでに起こったことはまた起こるだろうし、
すでに行われたことはまた行われるだろう。
太陽の下に新しいものはない。
これは新しいものだ、ごらん、といえる何かがあったとする。
ところが、それも、先の代にすでにあったものなのだ。
ただ、昔のことは記憶に残っていない。
私たちののちの人々のすることも、それよりのちの人々の記憶に残らないだろう。

 ──コヘレットの書(伝道の書)──フェデリコ・バルバロ訳

 『城館の人』からの引用(第三部 第十六章)
 彼がキリストの言葉など一度も引用したことがなかったことから、アンドレジードなどはモンテーニュ福音書など読んだことさえないのではないか、と疑っているのであったが、ここで忘れてならないのは、彼の枕頭の書であった旧約聖書中の『伝道の書』であった。彼はこの『伝道の書』から十二カ所もの言句を引用して、書斎の天井に銘文として記させていたものであった。
 『伝道の書』といわれると、すぐにも「伝道者いわく、空の空、空の空なる哉。すべては空なり。」といったところを思い出しがちなのであったが、この書は新旧の聖書を通して実に甘美な、むしろオリエンタルな無常観を湛えたものであった。すべては空であって、それが空の空であればこそ、それ故にこそ、

 「汝ゆきて喜びをもて汝のパンを食らい、楽しき心をもて汝の酒を飲め。そは神ひさしく汝のわざを嘉したまへばなり。汝の衣を常に白からしめよ。汝の頭に膏を絶えしむるなかれ。日の下に汝が賜るこの汝の空なる生命の間、汝、その愛する妻とともに喜びてくらせ。汝の空なる生命の間、しかせよ。是は汝が世にありて受くる分、汝が日の下に働ける労苦によりて得るものなり。すべて汝の手に堪ふることは力をつくしてこれを為せ。そは汝のゆかんところの陰府(黄泉)には、わざもはかりごとも知識も智慧もあることなければなり。」

 ここにはキリスト教的救いの前提となっている、罪だとか原罪だとかいったものは、まったくないのであった。
 ・・・・このオリエンタルな、と言うべきか、あるいはギリシャ的な、と言うべきかはわからないが、ここには無常観に深くひたされた、一種の高貴な諦念のなかに、深々とした生への積極的な肯定がある、とモンテーニュに受け取られたのではないか、というのが筆者の推定であった。
 このオリエンタルな虚無感は、それが虚無的であればこそ、人間的現実を突き刺していると言えるであろう。
 「喜悦(よろこび)をもて汝のパンを食らひ、楽しき心もて汝の酒を飲め。」 そのほかには、人間にとって何をどう出来るというのか。

 堀田善衛は、この第三部を「精神の祝祭」と名づけた。それはほとんど、「野生の思考」と同義ではないのだろうか。

 さて、エピローグを読む心の準備だけは調ったようだ。

別件
 昨日は忘年会。雨になったうえに場所を間違えてさんざんだったが、どうにかたどり着いた。
 忘年会の中身は、悔しいけれど、もとの学校にくらべると相当に上品で、しかもやたらと愉快だった。まだ名前を知っている人間はほとんどいないのに、まったく孤立感のようなものを味わうこともなかった。前の学校に負けていたのは、福引きの景品くらいかな。
 会話に仕事の話がほとんど出てこない。ぎゃくに「こんな場所ではやめましょう」という小さな声の発言も聞こえていた。はしゃいでいる人はもちろんいるが、そのはしゃぎ方に節度がある。が、もっとも違ったのは余興のレベルだった。玄人はだし、とまではいかなくても、素人の水準をはるかに超えている。
 クラシック・ギターを弾いた男がいる。
 「今日言われたので、ギターをとりにいったん家に帰って遅刻してきました。ぶっつけ本番ですので、弾き損なってもご勘弁ください。」そのギターがいい。会場がしーんとなり、曲が終わるごとに拍手声援。
 学年の演しものになって、場内が暗くなり、ディスコ音楽が流れてきた。全員黒装束のタイツ姿で統一した平均年齢40歳(よりはちと若かったか)が、激しく踊り出す。「あいつら、いつ練習しよったと?」その中心は、学年の国語をリードしている女性で、いちばん口をきく機会の多い人なのだが、まるで別人のように踊りまくった。名神カーフェリーで見た大阪芸大の『ドン・ジョバンニ』に劣らない強烈な印象が残った。あとで聞いたら、少女時代というグループの曲なのだという。
 たぶん、ギターの男も、ダンスの女性も、一時期本気でやっていたのだ。そういう人間が、いわば、たまたま教員になっている。そういうことらしい。たぶん、そのほかにも、分野こそ異なれ、似たような生き方をしている大人が多いのだろうと想像した。
 もどってきて、チビたちと遊んで、床についたのは深夜。なのに朝5時にはすっきり目覚めた。