矢代静一『旗手たちの青春』

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 なにやら読書ノートみたいなことになってきたけれど、成り行き任せでいこう。
 どうも暗合めいたことがつづく。

 矢代静一に言わせると、「『なよたけ』以上の傑作」である加藤道夫の『挿話(エピソード)』(自分にはなんのことやら、読んでいてもイメージがまったく湧かなかった)について、堀田善衛の評があるのを知った。野見山暁治、加藤道夫、堀田善衛、3人ともほとんど同世代。とくに加藤と堀田は同じ慶応の英文と仏文だから面識もあったのにちがいない。以下はすべて『旗手たちの青春』からの抜粋。

堀田善衛は、つらい指摘をしている。
ニューギニアで彼は、地獄を見た筈である。能や舞台や本のなかの地獄ではなくて、食い物もなくて、熱帯の密林に閉じこめられた軍隊の、死と、飢餓、地獄、を。〈中略〉彼の見た人間喪失、あるいはニューギニアのことについては、『挿話』という、滑稽劇に近いものが一篇あるだけであり、そこでのことを直かに語ったものはどこにもない。誰にも語っていないのではないか、と思う。そのことを思うと、話が逆だ、と言われるであろうが、私はドイツの詩人、アウグスト・フォン・プラーテンの次のような詩句を思い出す。

  美(うるわ)しきもの見し人は、
  はや死の手にぞわたされつ、
  世のいそしみにかなわねば。(生田春月訳)

 プラーテンの″美(うるわ)しきもの″を、ここで加藤の見た筈の地獄にかえて、私は暗然とする。」(今年の秋)

芥川比呂志について

 昭和二十四年六月に、芥川は初演出をしている。ジャン・アヌイ作の『アンチゴーヌ』がそれで、翻訳も彼自身で、更に合唱(序詞)の役で出演もしている。(音楽は芥川也寸志)・・・私は子どものころから芝居を見ているが、その長い年月の中で、もっとも印象に残っている芝居を挙げよと言われたら、ためらわずにこの『アンチゴーヌ』を挙げる。・・・完成されて文句のつけようのない上出来の舞台というものはある。しかし、観客の琴線に触れる芝居というのは、1+1=2ではだめで、1+1=2+αなのである。
・・・矢内原伊作も「劇作」で述べている。
「僕は躊躇なく言う、素晴らしい、と。そこには不必要なものは何一つなく、不足なものは何一つない。それにあの言葉、あの格調ある美しい日本語。僕は他の何よりも翻訳の功績を、訳者芥川比呂志を礼讃する。」

 芥川比呂志は十代のころ詩を書いていた。その一節。
朝 人人は影のように扉口から去った
喪の部屋には力にみちた光があふれていた
 裸の卓の上の林檎は輝きながら固く冷えた
敬虔な信の炎のように

(正直に言うと、この一節を読みながら、どこかGの言葉に似ていると思った)

 その矢代静一が「龍之介以上の言語感覚だ」という芥川比呂志訳『アンチゴーヌ』の一部。

  無様式の装置。同じような三つの戸口。幕があくと全人物が舞台にいる。お  しゃべりや、編み物や、トランプをしている。その中から序詞役が進み出る。
序詞役「ごらんのとおりです。この人物たちがこれからみなさまがたにアンチゴーヌの物語を演じてごらんに入れるわけです。アンチゴーヌというのは、あそこに黙りこくって坐っているあの痩せた少女です。まっすぐに前を見つめています。考えているのです。彼女はまもなくアンチゴーヌになろうとしている。人づきあいのわるい、髪の黒い痩せた少女、家族の誰からもまじめに愛されたことのない少女、そこから不意に身を起こして、世界の前に、国王たる叔父クレオンの前に、立ちはだかろうとしている。彼女は考えています。私はまもなく死ぬだろう、若いのに。私だって生きていることがとても好きだったのにと。しかし止むを得ません。彼女の名がアンチゴーヌであるからには、その役割を最後まで演じなければなりますまい。」
─中略─
合唱「悲劇のほうは静かなものです。第一、みんな身内なのですから。つまるところ誰にも罪はないのです。むろん殺される者がある一方に殺す者があるからというのではありません。また悲劇は、とりわけ清々しいものです。というのは、あの薄汚れた希望などというものがもうないことがはっきりしているからです。ドラマでは、そこから脱け出せるという希望があるために、人はもがき苦しみます。品の悪い話です。打算的であります。悲劇に償いはない。悲劇は王者のものです。人の心を唆ろうとするようなものは何一つないのです。」
 ─中略─
幕切れの台詞
合唱(進み出て)「ごらんのとおりです。あの小さなアンチゴーヌさえいなかったら。そうです、彼らはみんな穏やかに生活していられたでしょう。しかし、今、すべては終わりました。彼らはともかくも静かになりました。死ぬべき人はみんな死んでしまいました。一つのことを信じていた人たちも。その反対のことを信じていた人たちも。──何も信じていなかった人たち、歴史の中にとらえられていながら、何一つ分からずにいた人たちも、みんな死んでしまったのです。死んだ人たちはみんな同じようです。同じように固くなり役に立たなくなり、腐ってゆきます。そして生きている人々は徐々に彼らを忘れはじめ、彼らの名を混同しはじめるのです。終わったのです。アンチゴーヌは今、静かに眠っています。彼女がどんな存在であったか、私たちは二度と再び知ることはないでしょう。彼女の務めは彼女とともに去ったのです。悲しい大きなやすらぎが、テーベの上に、王宮の上に、クレオンが死の近づくのを待っている空しい宮殿の上に下りてきます。」
  (彼が話しているうちに、衛兵たちが入ってくる。椅子に陣取り、赤葡萄酒   の壜を傍に、帽子をあみだに被り、トランプをはじめる)
合唱「ここにはもう衛兵たちが残っているだけです。あの連中にとっては、こういうことはすべてどうでもいいことなんですね。ごらんのとおり、彼らは又トランプのつづきをやっています。」
(衛兵たちがトランプをしている間に、急速に幕が下りる)

 東京に出てすぐのころ、「日生劇場ちゃどげなところか行ってみよう」と出かけたとき見たのは、このお芝居だ。筋書きはまったく覚えていない。ただ、台詞の美しさだけが印象に残っている。だから、それを三田和代ひとりの功績であるかのように記憶していた。
──世界よ、私はお前が好きよ。抱きしめてあげる。
 こんど図書館に行き直して、芥川比呂志の訳を見つけたら読もう。
 ただし、学生時代に読んだりしなくて本当に幸運だったと思う。ジロドウもだが、もし読んでいたら、チクゴタロイモはもうとっくにこの世にはいなかった。100%自信をもって言う。
 人生のヒミツ、いやこの世のヒミツにさわるには、その後の40数年間が絶対に必要だったのだ。まだまだそのヒミツは全容のほんの一部分しか顕わしてはいない。

別件
 お母さんをなくしたパピヨンのタックがセーラー服の女の子につれられて散歩をしていた。なくなる一週間ほど前には、お母さんが散歩させているのを見かけている。いや、そのときはタックを懐に抱いて歩いていたので、タックの心配ばかりしていた。。
 病院でいっしょになったのもそんなに前のことではない。あまりにも急だった。ツシマイエネコには、「自分も病気なんだ」と話していたという。
 あの子はきっとお孫さんなんだな。