『旗手たちの青春』ノート

GFsへ

     2011/12/08

 朝5時40分起床。6時30分出勤。外はまだ夜。乗り込むのは地下鉄なので、太陽を意識するのは、博多駅から篠栗行きの列車に乗り換えてからになる。こんな通勤が来月中は続くのだろう。
 先週ジロドウの『オンディーヌ』。今週は矢代静一『旗手たちの青春』にぼうっとなっている。ぼうっとなっているうちに仕事が終わるのだから、なんというよか仕事じゃろかと思う。しぜんとそんな場所に吸い寄せられたのだろう。
 3月から4月にかけては、自分が中学から高校にあがる間の休暇期間にいるような気がしていた。そしてそのまま、中学時代、小学校時代、と遡行してゆきそうに思っていた。が、実際には、いまは、東京に出たてのころみたいな感覚になっている。べつに今さら何がはじまるわけでもないのだが、一種のモラトリアム期間を味わっているみたいなのだ。それも良かろう。そんな爺さんに付き合ってください。

 アヌイ『エレクトラ』は、自分が思っていたものとは違っていた。
 「世界よ、おまえを抱きしめてあげる」と言った少女の名前は何なのか。まだ探求の時はつづく。まさか、夢の中で聞いたセリフじゃないと思うんだが。
 アヌイの戯曲を読んだ範囲では、もとのギリシャ悲劇を読んだときの衝撃は得られなかった。もとの戯曲にないものが加わっているわけではなかったから。加わっていたのは、矢代静一が引用していた導き役のセリフ。が、それらはけっきょく説明なのだ。その説明のことばが美しいというのは、これは滅多にないことだとは思うが。
 それより、『エレクトラ』を読んでいて、千葉で暮らしていたころ、(20歳のころ)『エディプス王』を、盲いた占い師を主人公にして書き直してみたいと思っていたことを思い出した。それが出来上がらなかったのは、どうしても占い師の独白だらけで小説的になって、戯曲にならなかったのだ。ツシマイエネコだったら、じゃ小説にすりゃいいじゃないか、と言うかもしれないけど、そんな気にはまったくならなかった。お芝居にしか興味はなかったのです。そこらへんは、いまだにそうなのだから、この人は変だ。
 でも、矢代静一にしても、正直いうと、自分が読んだ範囲のどの戯曲よりも、この回想録のほうが圧倒的にスゴイと思うのだが、もし、そう言われたら憮然としたことだろう。なにかそういうこだわりというものがあるんだな。

 で、『旗手たちの青春』
 三島由紀夫についての部分は最小限にする。(じつはスゴイのです。が、一部分だけを抜き出すというわけにいかない。これを読み終わって図書館に戻すのがもったいない気がしてきた。あるいは、あらためて、アマゾンで入手するかもしれない)
「ある男に紹介するとき、ふざけて、小説家より役者に向いている、と言ったのだが、こうして時間がたってみると、まるっきり当たっていないこともなかった」
「三島は、大好きなギリシャの神話の中で生きていたとしたら、美少年のナルシスであると同時に、詩人兼竪琴の名手オルフェであったことだろう」 以下は三島の文章の引用。
 「古代ギリシャには『精神』などはなく、肉体と知性の均衡だけがあって、『精神』こそキリスト教のいまわしい発明だ、というのが私の考えであった・・・・私は自分の古典主義の帰結をここに見出した。それはいわば、美しい作品を作ることと、自分が美しいものになることとの、同一の倫理基準の発見であり、古代ギリシャ人はその鍵を握っていたように思われるのだった」
──美しく生きるということは、君にとっては、ソドムの男として、崇められ、愛されることだったのだ。そのために作品が破綻しようが知ったことか。
  
 加藤道夫と芥川比呂志についての記述にもどる。
昭和24年の加藤道夫から芥川への手紙の一節。
「一切のオベッカを放棄して芸術家になり給え。君が酒に理性を喪っている姿は見苦しい。くだらぬ女とケンカしている君の姿はイタマしいと言うよりは、アサマしい」
――道ちゃんみたいに、『純粋』だけ食べて芝居ができるんなら、苦労はないよねえ。
 私(矢代)はうなずいたが、二人とも、心の奥底では忸怩たるものがあったことは確かである。
 (その年、矢代は肺結核のため入院し、以後2年間の闘病生活に入る。)
──昭和26年5月14日の夕暮れ、私の病室のドアを、「トン、トン」と弱く、そう、しめやかにノックする者がいた。「どうぞ」とうながしたら、ドアが薄めに開いた。芥川の当惑したような顔がのぞいていた。ドアをゆっくり閉めるなり、私を見つめて、「見舞いじゃないよ。僕も今日から入院だ」。にやりと笑った。私は思わず息を呑んだ。私はこんな始末だし、加藤は半病人、そして、いままた芥川が倒れた。文学座のアトリエは、じゃ、どうなるんだ!・・・若い私は(芥川31歳。矢代24歳)みるみるうちに感傷的になって、寝返りを打って、芥川に背を向けた。

──入院して最初の夏、・・・就寝時間間近だった。ドアがしめやかにノックされ、そーっと芥川が入ってきた。目がうるんでいる。「看護婦に見つかると、又、怒られますよ」。それには答えず芥川は「ルイ・ジュヴェが死んじゃったよ、矢っちゃん」と張りのない声でぼそっと言った。
 昨日息を引きとったそうだ。新聞かラジオで知ったのだろう。私には彼の純粋な悲しみが痛いほど分かった。加藤にとって劇詩人ジャン・ジロドウが師であり、精神的な支えだったのと同様に、芥川にとっては、ルイ・ジュヴェこそ師であった。・・・ルイ・ジュヴェは日本では映画の名優(「舞踏会の手帖」「旅路の果て」「女だけの都」「どん底」)としてしか知られていなかったが、・・・名演出家だった。外交官の要職にあったジャン・ジロドウに戯曲を次々に書かせたのもルイ・ジュヴェだった。それはちょうど芥川と加藤の結びつきとそっくりであった。

 加藤道夫についての矢代の評を付け加えて、今日は、ここらへんまでにしておきます。
 ──加藤道夫は、日本で最初の、西洋的な装いをこらした劇詩人であった。いや、私の知る範囲では、劇詩人という単語は、現在までのところ、彼一人のために創られて言葉のような気がする。

 ほんとかいな?と思ったら、『なよたけ』を読んでください。

別件
 今津湾のカモは今年ひさしぶりの盛況だ。目勘定で約1000羽。年が明けたら数年ぶりでカモ鍋にありつけるかもしれない。