『旗手たち』との別れ

2011/12/9
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 今年いちばんの冷え込み。朝のサンポのとき、チビたちも震え上がってしまった。といってもまだプラスなんだけど。

 矢代静一は、「自分たちの青春を次の世代の人たちに知ってもらいたい」という動機でこの本を執筆したと書いている。その心情はほとんどストレートに伝わってくる。マッサンが「ギッコンバッタン」を評して「ギッコンギッコンだった」と書いてきていたが、『旗手たち・・・』を読んでいる間、こちらがオタオタならないようにするのが大変だった。
 が、同時にこの本は彼らの青春へのオマージュでもある。そして、先立った三人への別れの弁でもある気がする。

昭和20年 加藤道夫 27歳
芥川比呂志25歳
三島由紀夫20歳
矢代静一 18歳

 三好十郎の『炎の人』は名作だし、自分をある世界へ目を開かせてくれた恩人のようなお芝居だ。だから、いまでも上演されていると知って嬉しくなる。しかし、自分自身は、最後のゴッホへのことば以外はもう見たり聞いたりしたくなくなっているのに気づいた。もし観るとしたら、ひたすら堪えて、最後のゴッホへのオマージュを待つ。しかし、それをきちんと読める俳優がまだいるのかどうかは知らない。

 終わり近くなって矢代は、『なよたけ』について、とんでもないことを言い出す。
 卒業論文を『テッサ』に絞って(ジョーン・フォンテーン『永遠の処女』の原本らしい。なお、ジョーン・フォンテーンは少女時代を日本で過ごした。そのころ「やせっぽちの少女」を加藤道夫が見初めていた。数年後、美しく育ったその少女と銀幕で「再会」したときの驚きは相当のものだったらしい)読みはじめる。そして、その『テッサ』のなかの台詞、それも核心のそうとうに長い部分が、『なよたけ』と酷似していることを発見する。
──私はこの二作を並記しようときめたとき、「これは盗作ではなく、入魂である」と書くつもりだった。しかし、写し終えたいまは、はたと考え込んでいる。
──ほんとうに、なぜ生前に、加藤に私は私の発見をぶつけようとしなかったのだろう。・・・私は、「僕は加藤さんの文学は好きなんです」と前置きをしたあとで、はっきりと「ジロドウとは訣別して下さい」と言うべきではなかったのか。そうしたら、「加藤氏を大劇作家とも大詩人とも思っていなかった」三島も、のちにその言を訂正したかも知れない。

(それは、無理なことだという気がする。ニューギニアでの体験が加藤道夫を変えたわけではない。かれには、もともとそう生きるしかない何かがあったのだ)

 自分自身の稚拙な経験を書く。
 たしか19歳のとき、ローレンス・ヴァン・デル・ポストの『Bar of shadow』(もひとつの被告席)に出会った。最初のうちは辞書を引き引き読んでいたのだが、「間尺に合わん」と、途中からは頭の中でただ発音するだけで最後までいった。そして発音し終わったとき自分が感動しているのに気づいてビックリした。そのときのイメージをもとに『ハラ』という戯曲を書いた。主人公は『Bar of shadow』に出てくる「古代人の魂の権化」原軍曹のままだが、そのハラと捕虜のローレンスの間にインテリ男を加えた。日本敗戦のニュースが伝わったとき、ハラは気が狂う。「お前たちが勝利者になったわけか」というインテリにローレンスが答える。「日本負ケマシタ。イギリス負ケマス。中国勝チマス。アナタドウシマスカ?」「ふん、オレはハラと心中するぜ」たしかそう言わせた。
 ずいぶん後になって、大名時代だったと思うが、も一度『Bar of shadow』をちゃんと読み直した。そして自分のイメージは単なるイメージではなく、ほとんど正確に読んでいたことに気づいて二度目のビックリをした。
 レベルの違いは別として、加藤道夫にも似たようなことが起こったのではないか。まだ不十分な語学力で『テッサ』を読んだ。読みつつひとつのイメージが生まれた。そのイメージが膨らんでいって『なよたけ』として結実する。が、加藤は自分の想像以上にほとんど正確に読んでいたのだ。彼がイメージだと思っていたものは『テッサ』そのものだった。
 それを「盗作」と呼ぶべきかどうかは、チクゴタロイモの能力を超えた問題だ。しかしそれは、たぶん、矢代静一にとっても同様だろう。
 
昭和28年 加藤道夫死亡 35歳 矢代静一26歳
昭和45年 三島由紀夫死亡45歳     43歳
昭和56年 芥川比呂志死亡61歳   54歳
昭和58年           矢代静一『旗手たちの青春』執筆56歳

 矢代静一──加藤さんの業績を辿ると、彼の死のあとの30年、僕はあんまり本気で勉強していなかったなって、省みて忸怩たる思いがする。   
 中村真一郎──だけどあの緊張は持続できないよ。持続しようと思えば死ぬよりほかしようがない。死ぬか気が狂うんじゃない。加藤はそれを知らなかったから、ああいう風になったし。それは三島由起夫だってそうだと思うんですよ。ゆるめることを知らなかったから。

 芥川夫人によると、チェホフ『ワーニャ伯父さん』を演っていたころ、寝床のなかで声を出して台本を読んでいるうちに、比呂志が泣き出してしまった。それは、幕切れのソーニャの台詞だった。
「やがてその時が来たら、素直に死んで行きましょうね。あの世に行ったら、どんなに私たちが苦しかったか、どんなに涙を流したか、どんなにつらい一生を送って来たか、それを残らず申し上げましょうね。すると神さまは、まあ気の毒に、と思ってくださる。そのときこそ伯父さん、ねえ伯父さん、あなたにも私にも、明るい、すばらしい、なんとも言えない生活がひらけて、まあ嬉しい!と思わず声をあげるのよ。そして現在の不仕合わせな暮らしを、なつかしく、ほほえましく振り返って、私たち──ほっと息がつけるんだわ。わたし、ほんとうにそう思うの、伯父さん。しん底から燃えるように、焼けつくように、私そう思うの。」
──僕は天国なんかにゆけない人間だよ。わるいことばかりしているから。
──芥川さん、わるいことってなんですか? あなたはわるいことばかりしたって? 凄んではいけませんよ。 私と同様に、ちょっと敏感だっただけなのです。

 もうこれで終わろうと思うのだが、未練たらたらであるのに気づく。いいお芝居を観たあとがこんな感じだった。劇場から出ていくのが嫌になる。といって、その場に居つづける勇気もない。しかたなしにただ、むっつりとして腰をあげ外に出ていく。
 今回読み終わったときは、悲しくて悲しくて、なんで悲しいのかは分からなかったが、ただ悲しくて、人恋しくなった。そして、またぞろ同じことばを胸の中でつぶやく。
──現実なんて大嫌いだ。

別件
 『旗手たちの青春』のなかに書かれていたこと。
 明治7年。「イエロー・ヨコハマ・パンチ」に、
″TO BE,OR NOT TO BE,THAT IS THE QUESTION″がはじめて日本語に翻訳されて載ったそうだ。
「アリマス、アリマセン、アレハ、ナンデスカ」