『若き日の詩人たちの肖像』

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2011/12/13
 年末旅行が近づいてきて、「さて、去年はどこに行ったのかな?」と思い出そうとしてぎょっとなった。最初はまったく何も出てこない。数日経って、「花の家」で落ち合って、翌朝は自転車を借りて渡月橋を渡り、なんとかいう神社に二カ所ほど行き、それからタクシーに乗り込んで誰かの家の庭を見、そのそばの吉田神社の入口にある喫茶店でおしゃべりし、京大の『上海ムーン』は諦めて駅に向かった。
 そこから先はまだ出てこない。いよいよの時は、Fの備忘録を引っ張り出せばいいのだけれど、忘れっぽくなったというよりは、去年はほんとうに疲れていたんだと思う。「疲れ」というのは、筋肉とかよりも脳みそにくるもんなんだと感じるようになったのは、そんなに以前のことじゃない。

 今年も、賀状を交わしている人から喪中葉書が届く。ほとんどは親に関することだから、まずは順番通りなんだが、中には「弟が」というのもある。いけんぞなもし。
 10歳ほど年上のイトコもいなくなった。そうとうな元気者で、子どもの時、筑後川を渡って、対岸の畑から西瓜をかっぱらってきた冒険談には腹を抱えて笑った。欲張りすぎて、スイカといっしょには筑後川を泳ぎ渡りきれず、陸揚げに成功したのはほんの数個だけだったという。「別にスイカが食いたかったわけじゃなかもん。」
 高校の後輩の父上もなくなった。小学校の先生をなさっていた方で、こちらの学生時代に中国にいく機会があり、「中国はすばらしい。子どもたちの目がきらきら輝いている」というので、そりゃあそこで何か異常なことが起こっているな、と思った。その方はいい人で、ものごとをいい方に解釈する傾きがあったのだ。こちらはもともと、きらきらしたある種の目は「ガラスの目玉」にしか見えなかった。(こちらに向かって話していても、その人にこちらが見えているようには思えなかった)だから、話を聞いたとき、中国の子どもたちがみな「ガラスの目玉」になっているように感じた。その方も亡くなった。ガラスの目玉をしていた子どもたちはいまどうしているのだろう。

 堀田義衞『若き日の詩人たちの肖像』を読みはじめて参っている。「もう、どうにも止まらない」状態だ。ただし若い頃のように、徹夜で読みふける、なんてことはもうない。だから、かえって神経の興奮を一定の状態で持続させていなくてはならず、それだけで結構つかれる。いや、持続させようとか、何も意識していない。かってに神経が興奮しつづけているだけだ。
 1966から1968にかけて書かれたのだという。ということは、50歳ごろの作品ということになる。まだ存命の人も多かったろうに、(書かれていることがフィクションとは思えない。そんな面倒なことをしている気配はいっさいない。)それでも書かずにいられなかったに違いない。個人個人、あるいは作者自身の心情とかではなく、じぶんの生きた時代、自分の吸った空気を書きたかったのだ、きっと。いや、それとも違う。著者がこう言っている部分がある。
「人を信ずべき理由は百千あり、信ずべからざる理由もまた百千とある。
 人はその二つの間に生きねばならぬ。──アラン──
 しかし、二つの間に。ではあるまい。二つともを生きねばならぬ、であろう、 と思う。」
 著者がもっとも書きたかったことは、その「思い」のような気がする。
 ハンナ・アレントが「もう世界を学問の言葉で表すのは無理だ。それが可能だとしたら、小説しかないだろう」という意味のことを書いていた。そのアレントのイメージしていた小説とは、この堀田善衛の作品のようなものなのかもしれない。
 いま言えるのは、そこまで。あとは東林院の布団のなかで、ということになるのかな。
 前回の『旗手たちの青春』について分かったことだけ付け加える。
 堀田善衛は上京してすぐのころ、「新宿の一階が酒場になっている喫茶店」で、田村隆一らに出会っている。田村隆一以外はだれのことか分からない。(ぜんぶ勝手につけたニックネームになっているのです)18か19の頃だろう。
 その後、法か政から仏文にかわって芥川比呂志と出会い、その芥川の紹介で英文の加藤道夫を知る。それが19か20のとき。芥川や加藤が、はじめて学外で仏語劇をやったときは、出演もしている。台詞は劇の最後の「アデュー」一語だけだったそうだ。「面識があった」どころの話ではない。

 思い出したついでに、著者の「思い」を付け加える。すでに仏印進駐が始まったころ、「阿佐ヶ谷の先生」が酒を飲んで著者のアパートに呼び出しに来る。
「天がな、天があるんだぞ、天がちゃあんと地面の上に、つくってあるんだ。いや、つくってあるんじゃない、天が、天がな、、地面の上に、つくって・・・じゃなくて、天が、いるんだ、いるんだよ、天が」(注 天壇の話)
 先生はしきりにもどかしがった。天というものがある、それはあるのだ、しかもその天という奴が、天が地面の上に、天そっくりなかたちの建物になって存在する、しかもその建物は、要するにタダの建物ではなくて、其奴がすでにして天なのだ、天そのものなのだ、ということを言うのは、これはやはり容易なことではなかった。肱のぬけたメリヤスのシャツを着込んだ両手で,白いもののまじった頭を抱え込んだり,頭のてっぺんを叩いてみたり、あたかもその頭のてっぺんそのものが天であるかのようにもどかしがった。
「ことばになって、天ということばがある以上、天は、そりゃあるでしょう」
 と若者が助(す)け手に出ると、逆に先生は、
「そんなら神ということばがある以上、神はあるのか?」
 と問うて来た。若者は腹をきめて、
「そうです!」
 と、下腹でそこらここら、あたり一帯の空気を押しかえすようにして答えた。
 先生は急に静かになってしまった。
「それじゃ、ことばになっているものは、ぜーんぶ、存在するのか」
「そうです」
「ふーむ」
 若者は、それが信じられなければ何が文学だ、と言いたいのだったが、それは生意気というものである。
 先生は黙ってしまい、ごろりと倒れるようにして火鉢の前に寝てしまった。

 こんな生意気は若者と出会った先生は、なんという幸運だったことだろう。

別件
 ウ○コ大魔王は先々週から、もともとお気に入りだった椅子に自分で飛び乗るようになった。今週になると、その椅子に坐っているお父さんの膝に直接飛び乗ってきた。一回目失敗、これまでだったら、それで諦めるのに、今回は二度目の挑戦で成功。次の日は1回で成功。少しずつ自信回復基調にある。もし順調にいけば、そのうち自家用車にも自分で乗り込むようになるかもしれない。そこまで行ったらもうホンモノなのだが。