絆と縁

2012/1/8
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 小島直己『福澤山脈』(主要な登場人物である朝吹英二は、芥川賞作家朝吹真理子の曾祖父にあたるらしい)のあとがきを読んでいて、懐かしい名前に出会った。
 『福澤山脈』は最初、西日本新聞に連載されたのだそうだ。そのとき世話になった人物として出ている名前を覚えていた。姉の父親の最期の様子を伝えてくださった人だ。(その方の報告をもとにして、防衛庁発行の膨大な戦史から「トンカの戦い」を見つけだした話は以前にもしたが、きっとまたいつか話し出すと思う)母親はただ「いい人だった」としか言わなかったが、その人が遺族の生計の糧として新聞販売を勧めてくれたのだろう。筑後タロイモはそのお陰で大学に行けた。
 だから、、、という以前に、小学校五年生から新聞配達をさせられても、そのことを僻んだ覚えはまったくない。むしろ、誇らしさがあった。あの時代の飯塚とは、そういう場所だった。と同時に「自活」へのあこがれのようなものは、すでにそのとき芽生えていた。あのころ、日本中にそういう場所が数知れずあったはずだ。
 小島直己の小説自体が、時代の様相と、人のつながりを主題としたものだが、慶応を中心にした上流階級だけではなく、小さくて細いつながりが、人々の生活を成り立たせてきたし、いまも成り立たせている。
 金を稼ぐためだけではない。外で酒を飲む余裕がない人たちが、もと料亭だったという、ただ広いだけが取り柄の我が家に手作りの料理を持ち寄って大集合して宴会をした。最後はいつも炭坑節。そのときは、明治時代に作られたという家が揺れた。花見も町内で出かけた。あるときは、学校の昼休みに抜け出して、裏山の桜ヶ丘の隠れ家(もとの防空壕)に行こうとしたら、その隠れ家の前で町内のオジちゃん・オバちゃんたちが酒盛りをやっているので、あわてて逃げ帰った。たしか、小学校のころまではそんな感じだった。中学に入ると家族単位で動くようになったと記憶しているから、たぶん経済成長という奴がその時期から始まったのだろう。
 今年の書き初めは、「龍」か「絆」がはやりらしい。マッサンも「絆と書いた」と言ってきた。が、筑後タロイモにとっては、その言葉は強すぎる。
 絆は覊絆のこと。もともとは「絆(ほだ)し」と同義だろう。それは、束縛するもの、拘束するもののことだ。要するに絆はつなだった。時代が進むにつれて、もとの意味と変わっていくこと自体は自然なことだ。もともとよこしまな意味だった自由が、近代を迎えるとき輝きをはなつ言葉になった。(いま、その言葉が色あせてしまっているのに危機感のようなものさえある)しかし、「絆」の乱発は、そのことばの値打ちをどんどん下げていく。それは、言葉のインフレでしかない。
 いったん言葉のインフレがはじまると、より強い、よりどぎつい表現が必要になってくる。この数十年間、この国では経済的デフレの反面で、そういうことが続いてきたのではないか。
 われわれの関係を保たせているものは、もっと弱い、もっとか細い、もっとあえかな、おぼろで、はかなげなもののはずだ。それをいま何と呼べばいいのかは知らないけれど、昔の人はただ縁と言った。「縁なんだな」と言えば、もうそれ以上の説明は不要だった。もちろん縁は、ふっと生まれて、いかにも簡単にふっと切れるときがある。そんな偶発的なものでは頼りなくて、目に見える、より太い、じょうぶな、互いが責任を折半する意志的な「絆」になったのか、、、。しかし、この世のつながりのかそけさこそ、われわれが頼りとすべきもっとも貴重な手がかりのように思えるのだが。

別件
 旭川のポンが死んじゃった。夏にも一度会えるかなという淡い期待はむなしくなった。しかし、田村隆一に教えられるまでもなく、果実に核があるように、ポンたちには魂がある。というか、犬も猫も馬も鳥も、魂そのものがそれぞれのぬいぐるみを着て、飛び跳ねているようなものだ。だから、毎晩、熟睡していたFの上では精霊が寝息をたてていたことになる。今頃はぬいぐるみを脱ぎ捨てて身軽になって、そのへんをぷるぷる飛んでいるかもしれない。「天国やら行かんもんね。ここのほうがいいもんね。」そして、いつか気に入ったぬいぐるみを見つけたら、いたづらっけを起こしてそれにスルッと入って、まるでニューフェイスのような振りをして、また現れるかもしれない。そんな出会いを楽しみにしていよう。
 いっぽうのわれわれに魂があるかどうかは知らない。が、せめて、その代わりになるかどうかは分からないけど、ちいさな志は持ち続けようと思う。