「千年の村」

Fへ
2012/02/17(金)
 さて、これに気づいて読むのはいつかしら。
 今日の福岡は、予報どおり、けっこう明るいのだが雪が舞っている。寒い。久しぶりで寒い。朝の散歩をさせているあいだ、手がしびれて、鼻がつんつんなって困った。日曜日まで雪模様が続くというから、週末の飯塚のあばら屋がいまから憂鬱になる。ただし、チビどもはすこぶる元気。大魔王のウ○コも日本の母のかと思うほど見事だった。日本の母は、もどってきて綱をはずしてやると、「さっ」と身構えて、こちらが追いかけるふりをしたら、家の周りをものすごい勢いで三周した。モモも健康をとりもどせたらいいけどね。
 ただいま室温14度。部屋のストーブをつけるかどうか迷っている。古いストーブなのでつけたときの油くささがニガテ。
 卒業生から電話があって、明日はクラス会だそうだ。生徒の時代は、そんな奴だとは思っていなかったのだが、「年が明けたらクラス会をやろうということになっていますので」「2月に予定してます。」「2週間後の土曜日は空いていますか?」ちゃんと段取りをとってくる。中学のときは荒れていたと聞いたことあるが、ほんとうはすごく繊細なやつだったんだ。ただし、正直言うと、もう卒業生たちと飲むのは面倒くさい。あいつら(いま大学4年生)とはこれが最後になるかもしれない。「隠棲願望」がいよいよ強くなりつつある。
 昨日の「千年の村」のことです。たまたま番組表をみてて「百年の森の十倍やんか」と思い、録画していた。
 Gはバイクのひとり旅で椎葉に行ったことがある。民宿で釣り竿を借りて傍の川でヤマメを釣り、料理してもらったそうだ。翌日出かけるときには、おばちゃんたちがハモニカの合奏で送り出してくれたという。「道が狭くて、車じゃ行かれんところです」
 源氏に追われて、約千年前に、標高1500メートルの山地に逃げ込み、そこで稗や粟をつくって生きてきた人達。「庭の山椒の木、鳴る鈴かけて」は「おどま盆ぎり盆ぎり」や「刈り干し切り唄」「島原の子守歌」とともに、こちらの民謡大会ではなくてはならない唄だ。、だが、もう焼き畑を行っているのは、クニばあさん一人だけ。ただし、息子がもどってきていて後を継ぐつもりらしい。「まるっきり金にはならん。でも、この蕎麦がうまかとですたい」
 焼き畑は30カ所あって、順繰りに焼いていく。次に焼くところは、前年に下刈りを済ませておく。大きくなった木は切り取って薪になる。数日晴れて地面がかわいたあと、すぐに雨が降り出しそうな空模様の日に一気にやる。クニばあさんが声をかけたら、近所の男たちが手伝いにくる。「ぜーんぶ自分たちでやる。道路も自分たちでつくった。」
 焼いたら、まだ土が温かいうちに蕎麦を蒔く。その上に土をかぶせ終わったころ本当に雨になった。「雲をみて決めようと。」2ヶ月半でもう収穫。「ありがたいですよ。蕎麦と水と塩さえあれば、それだけで世渡りの出くる」明治になってわずかに田んぼができたが、それまでは雑穀と山菜が主食だった。
 2年目に小豆。3年目に大豆。4年目に稗、粟。(順番は覚え間違いしているかもしれない)その後36年間はほったらかし。その年の稗・粟は9割がた鹿にやられた。「夜行性の動物には勝たん」。鹿の食い残しを集める。米にまぜて食べるのがクニばあちゃんの好み。
 もう亡くなったお爺ちゃんとは、駆け落ちをしてやっと親に認めさせて一緒になったのだという。血が近すぎたのかもしれない。「おじいちゃんが元気なころはよかった。毎日山仕事があるでしょうが。朝もいっしょ。昼もいっしょ。夜もいっしょ。鳩みたい」自然界の鳩はいつも番で行動するのだとはじめて知った。──たぶん、この「鳩みたい」を伝えたくて長々と書いた。
 番組は、夜神楽で終わる。帰ってきた息子(50代かな)も鼓を打ち、舞う。「子どもの頃しっかりたたきこまれとるから、はじまったら自然に体が動く」
 いまも、医者も看護士も助産師もいないのだそうだが、所沢の義理の兄貴流に言うなら、その村がなくならないうちに死にたい。(姉の話では、もうこの頃は、なにかある度に「もう死ぬ」と言うそうな。ただいま70歳)

別件
 新聞のコラムに、ジョン・ダンの詩の一節が引用してあった。
──人は島ではない。ひとりひとりが「人類」という大陸の一部である。ひとかけらの土くれが洗い流されてもそのぶん大陸が狭められるように、見ず知らずの誰の死であれ、私を小さくする・・・。 
 読んでいて思い出したことがある。以前にも話したことだ。
 タチアナ・デリューシナという名前を覚えていますか? 独力で『源氏物語』をロシア語に完訳した人。ただし、時期はソビエト連邦が崩壊したころで、出版の目途が立たないのを知った日本人たちが援助をし、全巻が出版された。
 そのタチアナさんの随筆のなかに、友人の次のような言葉があった。
──友だちの死とは、自分のなかの一部が死ぬことだ。自分のなかで死ぬものがなくなったときが、自分の死、なのかな。
 その随筆集「タチアナの源氏日記」(もすこし、どうかした題名がつけられなかったのかと思う。中身はじつに味わい深くて、高校生のころ、「北海道の向こうに、ロシア人という日本語を話す人々がいるんじゃないかしら」と感じたのは正しい誤解だったと思うほどなのに)には、ほかにも心に残るところが随所にあった。
 思い出しついでに、あと一カ所。
──遊びにきた甥のサーシャに鬼ごっこを教えた。サーシャは隠れるとすぐに「ここだよ。ここだよ。」と鬼に自分の居場所を教える。