生命の宗教

2012/02/25
 今日は、久しぶりにうじゃうじゃ書きます。
 中沢新一を知ったのは、たぶん30代前半。『野性の思考』の流れからだったのだろう。それからけっこう読んだ。南方熊楠を知ったのも彼の文章によってだろうと思う。
 その後、なんという著書だったのかは忘れたが、次のような文に出会った。
──高地の牧畜民族がもっていた「空」の思想と、低地の農耕民族の「輪廻」の思想が合体したとき、仏教が生まれた。
 自分にとっての中沢新一は上のことに尽きる。
 以後はここ数年前まで、「もう読む必要はない」と思っていた。けれど、また読みはじめたら面白すぎて、何度も降車予定駅を通過した、という話は以前にした。
 が、今日の話は、すこしずれる。
 チベットと印度の邂逅が仏教を生んだ。チベットの宗教は、羊の子宮という「空」に生命が宿るという考え方だった。生命の源は空なのだ。
 印度の宗教は、毎年その時期に種を播くと、またその時期に種が稔る。生命は循環しているという考え方だった。
 だから、「宗教」という言葉を使っているけれど、その二つは「生命観」と呼ぶほうが適当なのかもしれない。その「生命の宗教」である仏教が、あらたにヒマラヤをこえて中国に渡り、存在論的「荘子」的思想と出会って、日本人のイメージにある「禅」を生んだ。(ただし、日本人のイメージにある「禅」は、殆ど「人生」をその対象にしていて、中国の存在論的禅とはまったく別のもののように見える。)中国仏教はさらに海を渡って日本の神々と出会い、神仏習合という摩訶不思議な宗教を生んだ。(もちろん仏教世界は文字通り「世界」なわけで、上以外の様々な宗派や教本があるはずだが、それらを概観する能力は自分にはない。)
 中沢新一の功績は、それらの事柄を西洋的文脈(もうわれわれにはそれしか理解のしようがない。)で語ってきたことだ。しかし、もし、さらなることを期待できるのなら、その「神仏習合」的仏教を解きほぐすことではなく、全体的なイメージ、視覚的なイメージを描くこと──もっとも肝要なのは、論理や意味ではなく、イメージだ──なのだが、たぶんもう彼はそれを放棄している。もし、それをしようとしたら、新興宗教みたいなものにならざるを得ない。実際に最近の彼の言説を見ていると、まるで「緑の宗教」教祖みたいで、行動化しようとした途端に言葉の力を失ってしまった。その原因は、かれのもっとも大きな貢献である「東洋的なものを西洋的文脈で明らかにしてきた」そのことにあるとしか思えない。その言葉を、もっとも身近なこの国で生かそうとすると、とつぜん絶句する。そして、市民運動家みたいな発言になる。市民運動家の欠点は何か。それは、モノカルチャー的であることだ。モノカルチャー的宗教(いや、モノカルチャー的価値観と言っておく)は存続し得ないということを、かれはその半生をかけて敷衍してきたのではなかったのか。
 10年ほど前「文明の衝突」という本がベストセラーになった。自分もその簡素版を読んだ。そこから読みとるべきことは、パワーポリティックスの話なのではなく、文明は衝突と融合を繰り返すことによって生き延びてきたという事実だ。その度にすりつぶされていった人々の数は億単位に達するだろう。それでも人間は生き延びてきた。アニメみたいな比喩で恐縮だが、恐竜が鳥に姿を変えて生き延びたように、クラッシュにあった文明もまた形を変え、名を変えて今にある。その趨勢はいまもつづいている。はげしくつづいている。
 いま思っていることは、それらの出来事を進歩と言っていいのかということだ。
結論は出ていない。ただ、それらが進歩であるなら、自分は保守派、守旧派でいたがっているのかもしれない。ただし、だとしても、「緑の党」や「緑の宗教」的カルチャーには与しない。たとえば、原発的なきわめて危険な武器を生かしつつ、山間部や海辺部の爺ちゃん婆ちゃんと孫たちの暮らしを守る。そんな発想にこだわりたい。それが可能なのかどうかまで判断することが出来る人間はひとりもいまい。だとするなら、必要なのは決断なのだと思うのだが。そんな形で「日本」を守れないものなのか。

別件
 田村隆一も最晩年の日記を残すのみになり、滞っている。「飽かぬ別れ」を「名残惜しい」がいいか「離れがたい」がいいかなどと屈託してきたが、ちょうどそんな心境なのだろう。
 が、西脇順三郎草野心平、その向こうには、折口信夫が待っている。それに、これをタイピングしつつ、宮本常一のことを思い出していた。
 正直に言う。あと百年生きてみたい。(根がトロいから、それぐらいすぐかかる)それが無理ならせめて百歳までは無理かな? 田村隆一の言う、「天国へのピクニック」はとうぶん無期延期といきたいのだが。