勘違いする能力

2012/03/20
 わが美浜台では毎年たのしみにしているモクレンが(ひとの家の庭で)開きはじめた。明日か明後日には満開になるだろう。いよいよ春本番
 今日は、ヨットの世界選手権(5月、ドイツ)に出場する卒業生の激励会が小戸ヨットハーバーであった。数日前に連絡があって、急な話だなと思っていたら、もう今日、海外遠征に出発するのだという。あちこち転戦してからドイツに入るらしい。クラスのまとめ役にメールをしていたら二人来ていた。
 主催者の話では小戸出身者がすでに9人オリンピックに出ている。最初はベルリン・オリンピックに出場した九大OBだったというから何年前になるのか。「今年も実現したら、ちょうど10人目になります。」まさに由緒正しいところなのだ。
 勝負事なので結果の予測はできない。オリンピックに出られるか、出られないか、二つにひとつ。でも、無責任だが、どちらでもいい気がしている。ここまでやり通したことで、いずれの結果になるにせよ踏ん切りがつく。どうせ99,99999%の人間は敗者になるしかない。万一、最終的な勝者、つまり、たとえばオリンピックで金メダルをとったりしたら、その後にはロクな人生は待っていない気がする。
モームの『コスモポリタン』のなかに、小説を書きたくなって仕事をやめ、財産もすべて処分して無人島に住んだ男の話がある。その男はけっきょく小説を書きあげることなく死んでしまう。
――しかし、そのほうが良かったのかもしれない。かれは小説を書き上げたあとのあの絶望感を味わうことがなくてすんだのだから。
 また、昔の職業意識が出てしまうけど、「誇り高い敗者たれ」。それは自分の力を出し切ったうえで負けることだ。力を出し切った者は、勝者を祝福できる。力を出し切れなかった者は、ただ勝者をやっかむだけだ。
 両親も見えていたので挨拶すると、「せんせい」と言ったとたんにお母さんがウルウルになってしまった。先生から頂いた手紙はいまも読み返しています、というんだが、怠け者はまるっきり覚えていない。いったい、いつ、どんなことを書き送ったのだろう。罪作りな内容でなければいいんだが。

 さて、勘違いする能力、の話。
 信州の男に、「ショーヴェ洞窟壁画」のことを言ったら、それは「思いこみ」のことだろうと言う。似ているけど、ちょっと違う。そのちょっとの違いが決定的なんだと思う。
 思いこみは重たくて、動かない。だから、「能力」とは言い難い。勘違いは軽くて、するっと入れ替わる。その随時入れ替わり可能であることが「能力」。
 数万年前、洞窟に、熊やライオンや馬の絵を描いた我らが先祖は、そのとき自分が熊やライオンや馬を創造しているように勘違いしていた。ただの絵なのに。ひょっとしたら、草原を走っている動物よりもほんもののように感じていたかも知れない。それをフランスの科学者は「スピリッチャル」だと言った。「私は、彼らをホモ・サピエンスではなく、ホモ・スピリトスと呼びたい。」なるほどね。でも、フランス人は何にでも深い意味をもたせたがる。あの人たちの悪い癖だ。
 どうせ呼び名を変えるなら、ラテン語は分からないけど、シンプルに「絵を描く人」と呼びたい。絵を描くようになったとき、つまり、ホンモノと絵を混同するようになったとき、我らの先祖はわれわれがイメージするところの人間になった。sよ、こんど会うときに、ラテン語での呼び方を教えてください。
 その勘違い、混同が、以後、絵以外の分野にも拡がっていき、われわれの先祖は「世界」を手に入れた。分野が異なるものを相同視して考えることができるようになり、次元や位相のことなるものをだぶらせたり、比較したりする能力さえ手に入れた。それは単なる思いこみではなく、じっさいに今われわれは、世界のなかで生きている。そういう錯綜しダブった世界なしには生きられなくなっている。
 ショーヴェ洞窟には、撮影はできなかったけど、人間と動物が交尾している絵があるという。それが可能だ、というよりは、むしろ、人間と動物の交尾によって新しい生命が生まれる(あるいは生まれた)ということを、現代から深読みしてスピリッチャルに捕らえるか、ただの勘違いと考えるか、それは、いまの世界をどうみているかの違いかも知れない。
 勘違いする能力を手に入れた人々は、さまざまなものをすり替えていく。そのとき変換機能の核になったのは性のような気がする。農耕も、種をまく以前に、地面に突き刺すという行為が先行したのではないか。ちいさなものが大きく育つ。種まきも覚えた。そのときひとびとは、自分たちは大地と媾合していると勘違いしたはずだ。
 愛もそうだ。ほんらいわれわれは自己愛しか知らない。それなのに、自分の命以上に大切な命を発見する。命だけではなく、いまのことばでいう家族だの、ふるさとだの、国だのと自分を一体のものだと勘違いするようになってゆく。社会が拡大していくというのはそういうことだったろうし、文明が興ったのも、もとはと言えば、ちいさな勘違いからだった。それを詩人は「共同幻想」と呼んだ。
 ばななのお父さんが死んじゃったね。一年ほどまえだったか、かれの講演をテレビで聴いた。あそこでかれが言いたかったことは、「ことばは実用から生まれたんじゃない。感動からうまれたんだ。」ということだったんじゃないのかな。名づけるという感動が先で、そのずうっと後に、伝達機能の要請にしたがって記号としての言語が発達した。その記号としての言語は貨幣としての紙幣同様、取り替え可能な抽象物になっていった。いまそれらは、「思いこみ」の対象になっている。
 ばななのお父さん(わざわざ何でそんな呼び方をするかというと、かれの本はほとんど読んだことがないのです。「喜月」の二階にたくさん積み上げてあったから開いたことはあるんだが、「べつにオレは読まなくてよさそうだ」と感じた。なぜなら、そこで筆者が言おうとしていることは、特別なことではない──少なくともチクゴタロイモの育った町では──と思えたから。その「当たり前のこと」に衝撃を受けた世代や社会はつまり「思いこみ」だらけだったのではないか。ただ、大人になって何か文庫本を一冊読んだ。そのあとがきを書いているばななには驚いた。「こいつ分かっている」)。
 分野はちがうけど、似たことを考えたのが白川静だ。
 かれは、「音声言語よりまえに文字があった」と言う。その象形文字(ただしそれは、物をかたどって記号化したものではなく、その最初から抽象性をかたどったのだと説明する)が流動してゆくにつれて、あとから音声が付け加えられた。
 どこが似とるんじゃ、という声が聞こえてくる気がするが、今日はもう先に進む。
 いま話したいことは、勘違いする能力のことなのです。
 ついでだから、白川静が出している一例を話す。
 昨年末、日登美美術館でベトナムカンボジアの銅鼓をはじめて見た。大きな銅製の地低い樽のようなものをイメージしてください。形は真上から見たら円で、横からみたら□形とπ形が合わさったような形だ。白川静はそれを、南人の呪器だという。その埋めてある位置で、当時の境界線がわかる。殷人はその呪器を獲得すると同時に、□+πの文字を作った。その殷を亡ぼした漢はその象形文字(神聖文字とよぶほうがいいのかもしれない)をもっとも高い権威を示す文字として用い「王」と描くようになった。
 勘違いする能力は、すり替える能力にすすんだ。(路上の屍体である「真」が真実の「真」になったように)しかし、当時の権力者の意図とはずれて、われわれはそれらを、積み重なったイメージとして感得することができる。そのイメージは、もともとの、ただのモノにまで拡がってゆく。
 おなじように、音声言語は、その端緒のため息にまで。
 いつもどおり話が変わる。
 学年末考査が終わったあと、「あとは適当に」山椒魚でもやりましょう、ということだった。久しぶりだったし、恐怖のクラスだったので「さて、授業になるかな」と思っていたのに、いちばん授業らしくなった。教師の腕前のせいではない。井伏鱒二の『山椒魚』はほんとうの意味での傑作なのです。(「適当に」やろうと提案した人には、そのことが分かっていたのかな)岩穴に閉じこめられた山椒魚や、その山椒魚に閉じこめられた蛙の運命は、彼らや彼女たちにはひとごととは思えなくなったんだと思う。
──「いまでもべつに、お前のことを怒ってはいないんだ」という蛙のことばの意味を最後に考えてみようね。
 予想どおり、以前、書いた本人の痛みが伝わってくる作文の主のものが飛び抜けて読み応えがあった。
 あえて言うなら、意味とは、その勘違いのことなんだ。(どの勘違いじゃ? などとはもうおっしゃらないでください。この男はいつもけっして自分の能力の出し惜しみなんぞはしておりません。これで精一杯なのです)だから筑後タロイモは決して意味をバカにしたりはしていない。勘違いとはとても大切なことだと思うのと同様に、意味もまたとてもとても大切なものだ。ただ、意味を固定させたがるいまの風潮は気味が悪い。
 まとまりがつかないので、一昨日読み終えた、野見山暁治『異郷の陽だまり』の一節でごまかして終わります。
──子供のころ無性に泳ぎたかったのは、ぼくの体をたっぷりと包み込む水の濃密な何か、いってみれば水との秘めた交歓だったように思う。──過ぎゆく夏──
  
別件、かな?
 小戸ヨットハーバーの建屋から出てゆこうとしたとき、うつくしい女の子がおいかけてきた。
──先生、わたし妹です。今日はありがとうございました。
 思いがけないことだった。
──そう。わざわざ挨拶してくれて、ありがとうね。
──いいえぇ。
 あの娘と、兄貴の同級生のだれかが一緒になるなんて楽しいことがおこらないかな、と考えながら帰った。いや、なんとなく、あの娘には、もう一度会いそうな気がしている。