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2012/04/12

zへ

 昨日、新年度初仕事から帰ってきたら、mからDVDが届いていた。
 自分にとっては青春がぎっしり詰まったような横町と店。懐かしいなんてもんじゃない。そして、zとm。zの青年っぽさ。意外なほど年齢相応になっちゃったm。信州から届いたDVDから40数年経った自分。これはもう幽霊を通り越したバケモノだ。
 mからの文面には、「楽しかったけど、話し足りなかった。やっぱり木曽福島に押しかけて、ゆっくり話をしなくてはだめか。」とある。
 今日は留守番の日なので、(もともとからそうだから、″木曜日は午前中だけにしてくれ″と頼んでいたら、今週は授業なしになっていた。)机について神酒に礼状を書きはじめたら、「これはzにも送ろう」と思った。生アラキの生声が届けばいいけど。

 自分のことを守旧派と呼んでいたね? 実は勤めていた私学で教育改革の嵐が起こったとき、守旧派頭目扱いされたことはラドリオでも話した。ただし本人は、自分を単なる保守主義者なんだと思っている。
 保守主義者とはなにか、この社会は壊れやすいものなんだと見ている者のことだ。ガッコウやカイシャも同じく、いつ壊れてもおかしくない存在。それを腫れ物にさわるように守っていこうと思っている者。ちょっと手前味噌すぎるかな。だから、ほんとうの保守主義者は臆病だ。すぐ逡巡する。ためらう。言いよどむ。新しい時代を切り開いていくのには向かない。しかし、ブレーキや逆櫓なしに進むには、未来には危険が多すぎる。
 だから、このまま「真の保守」を標榜しつづける。そんな爺々になる。

 学生時代にけっこう本気で運動をやっていた男がいる。前回尋ねたのは40歳前くらいの話だから25年くらい経ったか。
 あの頃、ほんとうにカクメイを起こせると思っていたのか、と訊くと、「革命が起こせるかどうかは分からないけど、自分たちで世の中を変えられると思っていた」と言う。
 そうか、オレはできっこないと思っていた。できっこないことをやろうとしているお前たちが心配で、くっついて歩いていた。
 もし、もし、今の学生がお前たちと同じことをやろうとしたら、お前どうする?
 そいつは、間髪を入れず、ひとことはっきりと、「潰す」と言った。
 そうだよな。それが今のオレたちの役割だよな。

 いつの間にか、自分たちも大人になったんだと思った。ほっとした。「こいつとは一生つきあっていける」
 でも、よく考えてみると、あのころ真面目に騒いでいた連中はけっこう保守的だったんだ。むしろ大人たちの方が過激だった。世の中を大きく変えようとしていた。その過激な大人たちのおかげで、日本は平和裏に急激な経済成長を遂げ、オレたちは安楽に暮らせるようになった。と同時に、たとえば、(と敢えて言う)この3人組のような交友関係を、これからの若者は持ち得るのかと危惧する。60すぎても話したいことがいっぱいあるような友人関係のことです。40年ぶりにあっても、昨日の続きのような気分で話せる相手のことです。
 いまどきの若いモンにはなにかが足りない。その何かが分からないままに苛つきながら口をきいている。が、ひょっとしたらそれは、先に書いた、この社会は(大風呂敷を広げて、この世界は、と言い直しておく)きっかけさえあれば、あっという間に瓦解するのだという意識の欠如なのではないか。
 丸山真男『「である」ことと「する」こと』第一回の授業の時、
──いまから60数年前この福岡も、去年の3,11の東北のような状態になったんだよ。というと、生徒の目がふっとこっちを向いた。
──津波ではなく、アメリカの爆弾によってだけどね。
  が、そうだ。高校の時、世界史の先生が言った唯一の横道の話を思いだした。
 ある遺跡から、まだ解読されていない文字が刻まれた古代の石碑が発掘された。世界の言語学者はその解読の先陣をきろうと競争し、ひとりの学者が成功した。その石碑は「いまどきの若い者は・・・」で始まっていた。
 悲観的にばかりなるのは止しましょう。すくなくとも、若者たちには、もうオレたちが失ったパワーがある。そのパワーの吹き出し先が正鵠を得ていますように。

 3人のなかの唯一の企業戦士であるmには感謝しきり。あいつの許容量はすごい。


mへ

 DVD有り難うございました。
 それと、誕生日おめでとうございます。おれより4ヶ月の先輩だったんだ。なに、いくつになっても誕生日は、「おめでとう」だよ。万々歳だ。年寄りであることを胸を張って威張りましょう。
 写真を見た嫁さんが、zを指さして「若いねぇ。そっちと親子で通用するよ。」と言う。これは、zにも言ってやろう。ほんとうにあいつは若い。ちょっと異常なくらい。「悩み苦しんだことはないのか!?」いや、たぶん、想像だが、あいつは我が身が押しつぶされそうになるのをじいっとひたすら我慢するということがなかったんじゃないかな。
──やってられるか!
 二年前に胃カメラをのんだら、あなたはこれまでに何度も胃潰瘍をやってますね、と言う。なるほどと納得した。胃が張り裂けるような思いを何度もしたが、ほんとうに張り裂けかけていたんだ。断腸の思いだって何回も経験した。「貴様の面倒やらもう見きれん。やめてしまえ!」と言ったら、「はい」と言ってやめた奴がいた。その素直さに、一人になってから泣いたよ。そいつが一年後ぐらいに「免停をくらっているから無免許で乗ってきた」と、バイクで学校に会いに来たときは呆れたが。
 この春、再就職のために健康診断を受けたときはショックだった。身長が3センチも縮んでいる。やっぱり身の程をわきまえぬ荷を背負っていたんだ。医者が「いろいろ問題はあるが、それはあとで専門医への紹介状をおくる。診断書には、まだ働けると書いておく。80まで働きなさい。」と言いやがるから「いやです」と応えた。冗談じゃない。体はともかく、この小さな脳みそは、もうすぐオレ一人のために使う。
 zは「教員にむいていなかった」んじゃなくて、たぶん、組織内員数に向いていなかったんだ。(べつに自分は向いていたなんてまったく思わない。3人のなかで、まともに社会性が備わっているのはmだけじゃないかしら)大きな企業などには、その組織内員数に向かない者用の部署があるが、学校は全員平等の世界だから隠れ場所がない。昔の学校の場合は、学校自体が組織内員数に向かない者たちのための駆け込み寺的存在だった。──その分、給料は一般企業よりも遙かに安かった。そのかわり特典も与えられていたけど。たとえば恩給。たとえば休暇中の国鉄利用。──その点が「教育」を語るとき、ボタンの掛け違いから議論がかみ合わない理由のひとつだと思う。
 初仕事は、『「である」ことと「する」こと』、になった。
 覚えてますか? 「権利の上で居眠りをしている者」「人類が不断の努力によって勝ち得た自由を行使しようとしない者」への警鐘。
 もう46年前か。高校の時やっぱり読まされて、「どうせぇちゅうんじゃ?」と、おもいっきりイラっとなった文章。書かれたのは1960直前だと思う。それを50年後の高校生はどう読むのか、そのほうに興味がある。
 あのころは、権利だの自由だのということばには、(それは文字通り、ことば、にすぎなかったんだが)まぶしくなる程の輝きがあった。北九州の小さな盆地で育った男にとっては、東京という地名と、自由とは、ほとんど同義語だった。だから、いったんしがらみから脱出して以降、故郷でくらしたいとはもう思わない。オレなりに異郷で死ぬほうを選ぶ。(福岡は私にとってはりっぱな異郷の地であります。化外の地であります)
 60年安保も70年も、この国をほんとうの独立国にしよう、という運動だったんだなと今は思う。そう思い始めたときは、同時に、真の独立国にもう一度なろうとする動きに危うさを覚えるようになっていた。世界を知って以来のこの国のひとびとはアメリカ以上に孤立状態には耐えられない。(もっと極端なのが隣の韓国や朝鮮。)20世紀の軍国日本は、その孤立状態への耐えられなさからの発狂状態だったように見える。──断定的になるのを一生懸命逃れようとしております。同じことなんだけど。──
 そうか、そんなことを考えはじめたのは、安保条約を読んだときからかもしれない。旧安保を読んでいると、「これからは自分でしのげ。しかし、貴様、寝返りはユルさんぞ」という声が聞こえてくる。新安保の要の言葉は、もう親分子分の関係ではなく、「友情」だ。日米の絆は「友情」なのです。オレは「友情」が要の契約書なんてほかにあるんだろうかと、その非現実性に呆然となった。あれは歴史的文学です。が、そんな契約書を考えついた双方の当事者には敬意を覚える。そしていまも、日米のキーワードは友情なんだと思う。もちろん、フレンドシップと友情が同義語であるのかどうかは、ちょいと横に置いての話なのではあるが。
 
 昨夜から頭が興奮している。理由はたぶん、一ヶ月ぶりに高校生の前に立ったこと。それからDVDを見たこと。で、興奮ついでに、おしゃべりを続けます。

 アメリカ共和党の大統領候補がロムニィに決まったそうだ。なんという愚かさ。ロムニィでは決してオバマには勝てない。(またもや断定。だけど、こっちのほうは、今年巨人は優勝できない、より遙かに確信的だ。)理由は、その政策的なことではない。ロムニィはあまりにもセクシィでなさすぎる。セクスアピール度では歴代最低に思えた最初のイラク戦争を起こした父親のほうのブッシュでさえ、ロムニィに比べたらまだまだましだった。民主主義国を率いる人間には必ず必要な要素なんです。(胡錦濤には不必要。しかし、次世代にはもう必要になると思っていたら、習某氏にはそれがある。)  
 昔、だれかの話を読んでいたら、鉄の女サッチャーレーガンの前では処女にように振る舞っていたとある。サッチャーは偉い。そういう振る舞い方のほうが自国には有利に働くと判断していたのだ。レーガン自身もセクシィな爺さんだった。
 いまの日本の表舞台に出ている政治家たちをみていると、おばさんたちから犯されるのを誘っているような韓流スターと同系統の童貞っぽいのばかり。やっとれん。へげん(朝倉弁)。のさん(筑豊弁)。だちかん(富山弁)。
 小沢や亀井にいたっては、税金というのはボーリングすれば湧いてでてくるもんだと考えているとしか思えない旧世代の経済音痴。
 大昔の話になるが、義理の兄貴(某損害保険会社の重役だった。)と話しているうちに大げんかになったことがある。というか、向こうが一方的に切れたんだけど。
 バブルの絶頂期だった。
 「もう日本はいいかげん大金持ちになったんだから、(じっさいに個人所得でアメリカを瞬間的に追い抜いた。よね?m。日本列島の時価総額アメリカ全体と等しくなった。よね?)そろそろ金利生活者の道を探るべきだ」と言ったら、
──何を言うか!
 そんなことを考えはじめたきっかけは、ある(確か、金子某)経済学者と自称する男が本で、「もうすぐ日本はアメリカを追い抜く」と事例をあげて説明しているのを読んだことだった。その事例によると、日本企業の設備投資額がアメリカを上回ったからだとある。が、すこし詳しく読むと、日本企業(産業)の設備投資は、増産による価格競争力の拡大を狙ったものばかり。
──アメリカもヨーロッパも、これ以上の輸出洪水に耐えられるはずはないじゃないか。
 成り行きは想像通りになった。
 それより前、繊維製品の輸出規制交渉の時、アメリカ側が「いずれ日本もおれ達と同じ立場になるんだぜ」と、日本の譲歩を促したという記事を読んだ。家電製品企業が日本との競争には耐えられないと、倒産する前に会社を清算したという報告もあった。
 もし、あの頃、賢明にも(と、偉そうに言っときます)、右肩上がりの限度をさとって一部でも守りの政策をとりいれていたら、今の危機的国家財政は避けられたんじゃないかと思う。だけど、真珠湾攻撃の成功に国中が沸いているときに戦線縮小を唱えても、だれも聞く耳なんか持たないだろうな。それに、企業の立場からすれば、バブルのときに海外に投資したおかげで、今かろうじて息をついている、のかもしれない。
 ただ、あの何ともいい加減な「日はまた昇る」式の本を書いた男(たしか慶大教授)は、いまも専門家としてテレビに出ている。ああいうコメンテイターという種族は、恥をしっていたらできない職業らしい。

 なにを書こうとしたのかも分からなくなってきたので、今日はこのへんにします。
どうやら、昨日来の興奮も治まってきたらしい。

 福岡はもう葉桜。緑、緑、緑。新緑の美しさは何ものにも代え難い。花より新緑が命の色だ。これからゴールデンウイークまでが南の国ではもっとも命のかがやく季節。そういや安達太良に行ったのもその季節だった。ということは、偶然なんだろうが、南に限らず、日本中の自然がかがやく時期を連休にしているわけか。今年は東北にも人出が増えてほしいね。

別件
 チビたちを予防注射につれていった。
 看護婦さんの腕は傷だらけ。
──大変ですね。
──はい。飼い主さんの顔をじっと見ている子はダイジョウブです。キョロキョする子があぶない。
──じゃ、ウチのはダイジョウブです。気が小さいから、不安なときは、こっちの目を見ることに、ひたすら集中しています。
──そうですね。なかには、注射が終わったら、フウっと大きな溜息をつく子もいるんですよ。