神経の体幹トレーニングを

2012/04/21

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 福岡は、空にはアメリハナミズキ、地にはコデマリ(の亜種)の幼木、膝の高さにはチューリップ、空き地にはヒナゲシ、公園にはサツキ(だと思う。いまだにツツジとの区別は、葉が広いのがサツキ、小さくて丸っこいのがツツジとしか見えない)そして、ご近所の玄関脇には藤の花房が垂れさがりはじめた。ご当地が春なら、ここはもう初夏です。
──あ、藤だ。
 と思ったら正岡子規の歌が浮かんだ。
   甕にさす藤の花房短かければ畳の上に届かざりけり
 とすると、斎藤史
   白きうさぎ雪の山から出でて来て殺されたれば眼を開き居り
 は、その作歌の発想は同じなんだ。これは新発見。これは単に文法的な問題ではない。イケるな。こんど正岡子規をやるときには、えらそうに斎藤史の歌も紹介しよう。きっと斎藤史は、一首でもいいから子規を超えたいと思っていた。そして、これが出来たとき「超えた」と感じた。この「新説」には絶対的な自信がある。

 連休初日は一日大忙しの日だった。ひとつには、農園から、サツマイモの苗の生育が早くて土曜日には入荷する、という連絡がきたので、あわてて畑の畝作りに励んだこと。なんとか40本の苗を植え付けられそうになった。(ついでに、茗荷、独活、シシトウなど、好物の苗を植えたが、さて育つかどうか)
 あとひとつは、やっとツシマイエネコを説得して液晶テレビを買わせるのにこぎ着けた。そうなると今度は品物選び(オレだったら一番やすいものを見つけたら、それで終わるのだが、あのひとはそうはいかない)、テレビの台選び。これで半日がつぶれる。こっちにしたら「潰れた」なんだけど、日本の主婦は「たいへんよ」と家事をやっている気分でいる。ま、おかげで来週からはクレーコートでも文字や数字が見えるし、球筋もよくわかるようになるはず。
 昨夜は、「敗戦の本質」をみようと、球筋が見えないテレビに目を凝らした。が、よく分からない。要するにsの言う通り、リスクを怖れずエンドラインぎりぎりを狙いつづけたベルディヒに軍配があがった、ということなのだろうか。決定的だったのは、第3セット5−5からの40−30のブレークポイントで決定的なチャンスを逃したこと。が、それだけ追い込まれていたんだろうな。
 それでも、錦織はあきらかに進歩しているように見える。次回のバルセロナは大画面(というほどでもない。たぶん郡山のより小さい)で見るのを楽しみに。

 昨夜はテニスを見る前に、フィギュアーの高橋に興奮。体のきれがすごくて何度もゾクっとなった。前日のショートのときもそうだったが、あの人の演技はもうスケートを超えている。中日の山本マサといっしょに人間国宝に指定されるべきです。
 野球には興味がないらしいが、昨日、日ハムの斎藤佑樹が完封勝ち。嘘でしょと言いたくなるがホント。ついにプロ選手たちがあのひょろひょろ球のまえにシャッポを脱ぐしかなくなった。精神的な強さや、頭の良さはもちろんだが、コーチの元メジャーリーガー吉井理人の影響が大きいのだろうと思う。吉井は日本でもう通用しなくなってからアメリカに渡り、甦った。そのトレーニング風景をテレビで見せたことがある。それが、いわゆる体幹レーニングなるものを見た最初だった。(このパソコンにも、携帯電話にも、まだタイカンなる熟語は漢字として入っていない)
──よく、こんな辛気くさいことを続けられるな。
 ハアーハアー呼吸が乱れたり、汗がどくどく流れたり、終わったらぶっ倒れて「やったー」という達成感を味わったり出来ないトレーニング。その重要性を自分自身で経験した吉井のことばには、斎藤だけでなく日ハムの投手陣は耳を傾ける。そして、実行しつづけた分、結果がついてくることで、いよいよ自信をもちはじめる。今年の日ハムはいけるかもしれない。
 イチローや、今年からヤンキースの黒田(広島時代よりはるかに爆発的な投球フォームになった。)、そして高橋、錦織。このごろ思うのだが、言葉で考える頭の良さなんてたかが知れている。ことば以前のところで体が自然に反応し、しかも正確に適応できること、それが本当に頭がいいということのように思う。
 そんな話をツシマイエネコにしたら「我が意を得たり」とばかりまくしたてた。
──そうなのよ。それが演奏でもいちばん難しくて大変なことなのよ。どんなときでも体の芯がしっかりしていないとチャンとした演奏はできないの。わたしも体幹レーニングを取り入れようかな。
 あのひとはスグその気になる。
 別にスポーツや音楽演奏に限らない。イメージと実行。それを支える体幹。今年の指導のキーワードはこれにしよう。
 今年はひょっとしたら、自分が国語の授業だと思うものをフツウにやれるかもしれないと感じる。
 現代文は、頭のなか(昔のはやりことばで言うならパラダイム)をシャッフルする時間。シャッフルしたあとコロっと落ちてくるもの、お神籤や歳末大売り出しの誓文祓いのときのように、ガラガラガラガラっとしたあとでコトンと落ちるものが一箇あれば、教師の仕事はそこまででお終い。そんなもんじゃないかな。
 その落ちてきたものが何かは、もうお互いにとって考える必要はない。お互いとは、生徒と教師のことです。なぜなら、コロッコトッと落ちたものは、いわば健康そのもののウ○コみたいなものであるから。
 ほんとうに中身がシャッフルされたのであれば、頭は、その直後から自動修復を開始する。この場合の自動修復とは、頭の中の秩序を取り戻そうとすることです。そのときにパラダイムの組み替えがしぜんに行われる。(自分の場合、その修復作業は眠っているときに行われているような感覚がある。ときたまフッと目が覚めると「詩もどき」が別府の坊主地獄のようにボコっと出てくる。あれはどう考えても「詩」なんてもんじゃござんせん。)
 いずれにせよ、大切なのは頭のなかが、ストレッチをしたあとや、汗を流したあとのように軽くなっているかどうか。モチロン、ただの机上のクウロンなんでがすがね。

 3年生の、丸山真男『「である」ことと「する」こと』の授業のイメージがやっと沸いてきた。自分が高校時代に読んでショックを受けた理由、ムカついた理由、疑問に思ったことを説明しつつ、生徒から言葉をひきいだしていく。
 その疑問に思ったことの遠因が今回やっとわかった。
 「請求しないで放置した権利は失われる」というのは、資本主義の論理なんだ。いま、アメリカ以上に、韓国も中国も、その資本主義の論理をふりかざしている。むしろ、先走っていたはずの日本が、いまだにその論理になじめない。違和感を持ち続けている。・・・そういうことだったのか。・・・
 丸山真男に対する当時の非難はそういうところにあった。なにしろ、左翼にあらずんば知識人にあらず、の時代だったんだから。つまり、あの人は高校生のとき自分が感じていたよりもずっと偉いひとだったんだな。

 火曜日の新聞に載っていた記事を送ります。矢内原忠雄や伊作の縁者なのかもしれない。(学校の準備室で古いパソコンがまだ使えるか試していたら、ジャコメッティのことばが出てきた。これが実にいい。こんどまた送ります。)
 その文章の終わりがけにある「『もっと生きたい』と思った人のかわりに、自分たちは生きているのかもしれない」という考えは正しい。完全な勘違いだけれども正しい。その勘違いが、われわれを人間にしているのだと思う。

 水曜日の新聞には、以前からファンになっている英国のマラソンランナーとその夫が出ていたので、それも送ります。
 マーラ・ヤマウチを知ったのは、もうずいぶん前。日本のレースで、はるか後方に置き去りになっていたヤマウチがどんどん追い上げて優勝をさらったことがあった。「マーラー、フウ?」という感じだった。その彼女がレース後のインタビューで、先頭集団から後れたのは作戦だったのかと質問されて、「いえ、いえ、あの時はアクムを見ているようでした。」と、実に流暢な日本語で答えた。で、再度、「マーラー、フウ?」
 マーラのことはけっこう話題になったのでいくらか知っていたが、旦那がどんな男なのかに興味をもった。彼女はとびっきりの才媛なのだ。その彼女が結婚しようと思った男は、オレの勘では、きっとイギリスにはいない草食系。つまり、結婚によって自分を抑えたり変えたりする必要を感じずにすむ男だったんだろう。それよりも何よりも男の顔を見たかった。今日の写真で納得した。「日本人だ。」それも、いかにも日本人らしい日本人だ。
 いかにも日本人らしい日本人とは、たぶん、一歩退いて生きることを知っている人間、ということなんじゃないかな。どちらかというと受動的姿勢でありながら自分の見方や生き方を持ち、ストリップ的──昔は特出しショウというのがあった。最近の役者の演技、最近はやりの歌人や、俳人の作品を見ているとえげつなさすぎて気分が悪くなる。羞恥心があったら今はやりの表現活動なんて出来ないみたい。そうなると、10年以上まえ、30分かからずに読んだ『サラダ記念日』の値打ちを再認識した。──ではない自己表現をしなやかに実行していく。(そうとうに日本人を美化しております。が、そういう理想像をもった人たちなんだと思うよ、この国のひとたちは。これも勘違いかな?)一時期もうだめなのかと思っていたが、ロンドンにもイギリス代表として出場する。マーラはきっと最高に幸せな38歳だ。
 機会があったら彼女の日本語を聞いてください。ほんとうに頭のよい人だなあと好きになるはずだから。

付記
 こんどの高校の玄関には「芙蓉国里尽英才(この国には英才が満ち満ちている)」という書が掲げられている。いい書だなと近づいてみると王義之の68代目とある。ここらへんは中国らしい。しかし、ほんとうにいい言葉だ。矢内原カンナほどではないにしても、そこにはたぶん確信的な勘違いがある。それなしに教員なんかやっとれるか。