リセット後の初仕事が一段落

2012/05/11

 4連休初日は、久しぶりの快晴。
 のんびりと散歩をし、朝飯を食いおわるともう10時。買い物にでかけた日本の主婦のかわりにチビたちとお留守番。もうチビたちもオバサンとオジサンなので、「遊んでくれ」はほとんどない。ゴロンと横になって「充足した無為の時間」を愉しんでいる。いやぁ、愉悦の時間とはそげなもんですバイ。野見山さんはピカソの女性に、その「愉悦の無為」を感じるのだそうだ。
──美しい。
 解らんなあ。
 今年最初の授業である、丸山真男『「である」ことと「する」こと』(3年生)も、2年生中島敦山月記』(2年生)もいよいよ来週の最後のまとめを残すだけになった。最初にはじめた3年生の「頭のなかをシャッフルする授業」はひどかった。女の子たちがバタバタと眠りはじめる。べつにそういうひどい生徒というわけではない。フツウの高校生たちだ。すべては先生が悪い。もう17,8歳になった彼女たちの脳みそでは「自己防衛本能」が発令されたのだと思う。
 が、それでもなんとか最終章に近づいた。
──ラディカルな精神的貴族主義とラディカルな民主主義の内的結合
 そうだ。47年前この言葉に犯られたのだ。「内的結合」なんて表面を羽毛で撫でるようなイヤったらしい言葉はやめようよ。「結婚」のほうがずっとわかりやすい。
が、またバタバタ眠られたら困るから、さらっと「ひとりの人間のなかで実現させるのは難しいね。現にそうしようとした人たちが今の日本を混乱させているようにも感じるしね。」くらいにしておこう。
 そのかわりに「ラディカル」の説明をひとくさり。「ノンセクト・ラディカル」のころから気になっていた言葉なのです。
──みんな、ラディッシュという野菜を知っているよね?・・・そう、西洋大根、サラダになんかによく使う二十日大根。あのラディッシュとこのラディカルは語源がいっしょだ。つまり「ラディカル」は「根付いている」とか「根をはっている」というのがもともとも意味だ。だから、丸山さんが言いたいのは、これからの私たちに要求されているのは、「深く根ざした」民主主義、「表面的ではない」精神的貴族主義──エリート主義というよりは高いプライドと社会的義務感をもった生き方だろうな──を、ひとりひとりが持つことなんだと思うよ。それは、半世紀前だけのことではなくて、むしろ今、日本や世界が欲しがっている人間なんだという気がする。
 そうなると、生徒が眠るのを覚悟しながら、「ノーブレス・オブリージ」にも触れないわけにはいかないか。民主主義の時代にあってはもはや、nobleであることと地位や財産や収入は無関係であるはずだから。
 『山月記』ではもう、「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」のところが終わったので、
「こうやって考えてみると、自分は李徴ほどの才能がなく、また李徴以上に臆病で良かったなという気がする」というと、生徒が「アレッ?」という表情になる。たぶんどこかで、彼らにとって授業をしているセンセイは李徴や中島敦の代弁人みたいな感覚があったのだろう。(弁護士といういまの呼び方には違和感がある。昔の「代弁人」のほうがその仕事の役割が明確だと思う。韓国ではいまでも「代弁人」で通っているんじゃないかな?)
 最後に『山月記』とともにその最晩年に書かれた『光と風と夢』を紹介しよう。
──わたしはこれがいちばん好きだし、いちばん中島敦という人にさわれた気がする。
 だから、今年の夏休みまでに、もう一度読み直してみたい。読書をすることはね、それを書いたひととおしゃべりをすることなんだよ。

別件
 先日、雨が降り出しそうなので、ピッピだけを連れて散歩に出た。ガロは対馬イエネコがそこらへんまで連れて行く。(以前、雨の中を散歩に連れて行ったあと、ガロがガタガタ震え始めてびっくりしたことがある。なにしろ皮下脂肪がすくない。)最近のガロは家を出たところで、まずウンコをする。ピッピははるか家の見えないところに行ってからしか用をたさない。
 ピッピが遠ざかって行くと、ガロは悲しいそうな甘え声を出す。後で聞くと、ピッピの姿が見えなくなるまで動かなかったそうだ。
──やっぱ、ガロにとってはピッピがお母さんなとやね。