宛なしの手紙

2012,5,12

 誰あてともない手紙を書く。
 書き出しをどうしようかと思っているとき、──それは例によって真夜中の布団の中だったのだが──ふと、アダチの「眠れぬ夜のための」という副題のついた『鳥ヲのブルース』を思い出した。
 こちらに戻ってきてからも何度も引っ越しを繰り返し、その度に荷物を減らしつづけたけれど、その絵本は、オザキの『明治侠客伝』とともに本棚に残っている。
 不思議な絵本だった。アダチはあの絵本の作者としての義務を果たしつづけてきたのではないか。そんなことを考えた。そしたらいよいよ眠れなくなり、あきらめて起き出した。せっかく寝ていたチビたちには申し訳ないけど、机のスタンドを点けて一服。チビたちはまたソファーに戻った。
 迷いはじめている。そんな話に他人を付き合わせるのは面妖なだけのことだとは重々分かっているが、自分ひとりで悶々としているよりは、吐き出してしまうほうが先に進みやすい。だから、手前勝手ながら付き合ってください。

 丸山真男『「である」ことと「する」こと』の最終回でどこまでしゃべるか、の話なのです。
 授業の最初で、「47年前に自分が受けたショックについて少しずつ説明する」と偉そうなことを言った。もいちど生徒の前に立つことになり、そのとっぱじめがこの文章になるというのも何かの巡り合わせにような気がしたし、いつもそういう姿勢で仕事をしてきたつもりだから、場所がかわったからといって別のことをやろうとは思わなかった。
 その「ショック」の内容については、このひと月ぼちぼち話してはきた。が、まとめとなると、自分の生き方みたいなものと重なり過ぎて逆に、野見山さんじゃないが「どこまでが本当でどこからが作り話か」自分でも分からなくなる。なにしろ期間が長すぎる。でも、その間、ずっと心にあったには違いないのだ。
 「債権はそれを請求しつづけない限り時効となる」という論理は真赤っかの資本主義的論理だ。そこでは、慎ましさや、控えめさや、奥ゆかしさは生き残れない。ためらいや、たゆいたいや、にじみあいなど、自分がうつくしいと感じるイメージも消える。ということ以上に、「はしっこい者、ずうずうしい者の権利は守られて、とろい者、臆病な者の権利は無視される、というのが納得できなかったんじゃないかな。」それは講演者が語るような「不人情」で片付けられる問題じゃなかった。
 もし自由というものも自己主張の延長上にしかないものなら(政治的自由とはそのようなものだと大人になって思うようになったが)、自分は窒息死しないために別の場所に、別なかたちで自由を手に入れる。──まさか高校生がそんなことまで考えたわけもないが、なにかそういう覚悟めいたものを持たないと生きられないらしいという予感はあった気がする。そうだ、あの頃、「こいつら」と感じたチシキジンのひとりはやっぱりこの人だったんだ。
 いま思えば、この人は滔々たる時代の流れを説こうとした。自分たちのいま居る場所を教えてくれていた。が、遠賀川と線路と峠以外には外に出る方法がない盆地で育った高校生はただ「そんな話は聞きたくない」と耳をふさぎたくなっていたのだろう。
──そんな世の中になんか出たくない。
 引用されている福沢諭吉の「難しきことをする者が貴くて、易きことをする者は卑しい」という理屈にも反撥したはずだ。「難易の基準は何か!?」立身出世根性丸だしの、成金思想の権化。そうとしか見えなかったろう。
 だいぶあとになってからのことだが、今度生まれてくるときは職人になりたいと思うようになった。いまでもそう思っている。大分県の山奥の焼き物の里小鹿田(おんた)に行ったときウツミが、「オレにはこんなことは出来ない」と言った。そうだろうなと思った。だから土いじりを始めるというウツミをまずそこに連れて行きたかった。蹴り轆轤を使って、同じ皿を一日に何百枚も作っている。自分にはその仕事でさえも「難しく」思われた。もっと単純なこと、もっと不器用でも出来ること、もっと非能率的でもっと非生産的なこと。それを、毎日毎日同じことを、一生かかってやり続ける。いまイメージしているのはワッパ職人だ。あの弁当箱を作る職人になりたい。それでなければ石工。仏師ではないただの石工。自宅のちんけな庭にある八女燈籠を美しい思う。見飽きない、という以上に、そこにそれがあることを普段はまったく意識しない。そんな仕事がしたい。もちろん「も一度人間に生まれてくる」ことじたいが夢なのだから、夢のまた夢なのだけれど。
 が今はそれを「卑しい」職業だと言われても「そうだろうな」としか思わない。賎しさの中にほんとうの自由がある。たぶん本気でそう思っている。それが高校時代に皮膚感覚で探ろうとした自分の居場所のような気がする。
 学術や芸術がそれ自体の価値ではなく、効用や業績で評価される「過近代的」な風潮への危惧(野見山さんはそういう現代絵画を「モウドを形にしただけの発明」と言う)を述べたあと、講演の最後には、「ラディカルな精神的貴族主義とラディカルな民主主義の内的結びつき」の必要性が語られている。
 そんなことは言葉の遊びたい!!
 出来もせんことを口にするな!!
 石炭産業の火が消えてゆき、友人たちが次々にどこかへ引っ越していった盆地で(いま思えば孤立して)育った高校生には、そういう絵空事を口にする人間は許しがたい「口舌の徒」でしかなかった。
 学生時代に帰省したとき、地元紙のコラムに「民主主義と自由主義は相反している」と書いている男がいた。「その両方を掲げる運動はすべてまやかしだ。しかし、そのまやかしが今の世界を支えている」後にその男は中薗英助と同じく上海同文書院(スパイ養成校)の出身だと知った。明治大にも自分からそこの出身だと言った人がいた。「戦争は絶対しちゃいかん。しかし自分は敗戦後の日本人の姿を見ているからはっきり言う。いったん始めた戦争はぜったいに負けちゃいかん。」あの時代、それを聞いた学生たちはなにも反論しなかった。
 ついでに言う。
 前にも話したと思うが、その地元紙のコラムニストは同じころ、「経済的破綻をきたした北朝鮮は冒険主義に走るかもしれない」と書いた。40年前のことだ。その男を信用する気になっていたときだけに本気で怖くなった。ああいう怖い思いはあの時とキューバ危機の2回だけ。ベトナム戦争じゃなかった。今ふりかえってみれば、あの頃の博多にはまだ黒龍会の文化がけっこうしぶとく生き残っていた。

 ただいま3時半。配偶者が起き出してきた。のどが痛くなったから薬を呑んだと言う。飛び石連休に入った途端にあいつが先に寝込んだ。そのあとこちらが熱を出した。けっこうしつこかったが、ようやく治りかけたらまた発端に戻った。この相性の良さは少々は異常だ。

 もちろん今は、丸山真男の言ったことが正しいと思う。それがどんなにまやかしであっても、我々には「貴族精神と民主主義」が必要だ。世の中に必要だというだけではなく、それなしにはもう日々の生活が成り立ち得ない気がする。
 もう10年以上前か、同僚のカナダ人が母国の選挙の行方を固唾を呑んで見守っていた。フランス語圏の出身で、両親はフランス語しか話さないと言っていた。そのフランス語圏が独立するかどうかの投票だった。たしか1%未満の僅差で独立が拒否された。そのとき彼が満面の安堵の表情を浮かべて「民主主義はいいねぇ。」と言った。「うん。いいねぇ。」あの嬉しそうな青い目の色を忘れない。ミンシュシュイギは生きているのだ。自由もまた生きている。
 しかし、会ったこともないチシキジンから押し付けられた「ラディカルな精神的貴族主義」は重かった。重かったけれど、こんな世の中ではそれなしには生きられそうにもなかった。ノーブレス・オブリージは願い下げだったし、エリート臭のするものからは出来るだけ離れたところを選んで生きてきた。しかし、どんな環境にいても自分は自分だと思えるようになるまで親の待つ場所に帰れそうになかった。「もうオレは変わりようがないんだな。朱に染まっても赤くはならない。」カッコつけるなと言われそうだが、それがギリギリの27歳だった。が、ただの若造が、「染まらず」に生きるのは相当にしんどかった。正直に言うと、それは自分の健康を賭けた生き方だったように思う。
 前の学校が国際化路線を突っ走っていたころ、試験が終わったあとアメリカ人から、「採点はサーヴァイウ゛したか?」と声をかけられた。「そんな使い方するの?」 「するよ。」 「うん。サーヴァイヴした。」 なんとかサバイバルを果たした。

 どうやら吐き出したかったものは出たようだ。付き合って下さった方に感謝。
 授業のほうは、さらりと「責任から逃げたり、義務を果たそうとしない者には本当のプライドは生まれない。責任や義務を回避する人々には民主主義が守れない。丸山さんはそう言いたいんじゃなかったのかな。」あとは、考える生徒は自分で考えるだろう。まだ授業は10ケ月残っている。

別件
 新聞のコラムにナイチンゲールのことばが引用してあった。
「看護婦の最上の働きは、患者に看護の働きをほとんど気づかせないことであり、ただ患者が要求するものが何もないと気づくにいたったときだけ、患者に看護婦の存在を気づかせることなのである」