伝統というのは、エントロピ−増大に抗う運動である

2012/07/07(土)
 なんだかほっとしているので、ぼちぼち書きます。今日は、午後から畑仕事に出かける以外には予定はなにもない。
 畑はすごいことになってきた。
 トマト、キュウリ、茄子、ピーマン、シシトウ、オクラ、ニラ、サラダ菜、カボチャ。
 今年その味に目ざめたズッキーニは残念ながら長雨で腐り出したので掘り起こして廃棄。その隣のウリはこれから実をつける(ハズ)。
 ほんの数坪の畑だが、南国ともなれば成長は早い。
 江戸時代にアジアに来たヨーロッパ人が、一年中収穫できるのを知って、「神様は不公平だ」と怒ったという話を思いだす。九州に横着モンが多いのも肯ける。最近は、ブラブラしているだけで食える時代になったみたいで、横着モンの率は都会のほうが増えてきたようにも見受けるが。それに北海道の人々の横着さには学生時代にびっくりしたことがある。「文化が違う。」
 その北海道に出発するのは三週間あと。ちょうど30年ぶり。その30年間に人生の苦汁がたっぷりと吸いこまれて、いまはひたすらルンルン。──いちばん横着なのはオレか、、、。
 今週の面白かったことを報告します。
 木曜日に期末試験の答案を返した。「ミロのビーナス」のまとめのとき、教室中が揺れたクラスだ。そのクラスの平均点は70,7。そう言うと大騒ぎになった。たしかに感心するくらい勉強していた。
 69点の答案を受け取った生徒が、「わあ、オレ平均点以下やん!」と大声を出す。平均点にわずかに足りない別の生徒が、3点満点の記述問題が△で1点なのを「あと一点」と食い下がる。そうこうするうちに教室の真ん中で騒ぎが起きていた。なにごとかと近づいてみると女の子が別の女の子に馬乗りになっている。
 答案の見せっこをして、負けたほうが勝ったほうの答案をくしゃくしゃに丸めたので、報復のために馬乗りになっているのだった。(高校2年生のすることか。17歳の乙女だぞ。)答案の見せっこをするくらいだから、ふだんは仲がいいはずで、そのままほったらかした。
 その前日には、朝、職員室に入って行ったら、管弦楽部顧問が「ああ、ちょうど良かった。」と声をかけてくる。八月の定期演奏会のチケットを予約していた人だ。
──実は、××という生徒が、自分が先生にチケットを渡したいと言ってきたんですが。
 授業に行っている三年生だった。
 その日の授業の終わりの挨拶がすんだあと、その生徒が前に出てきた。
──わたし、管弦楽部員です。定期演奏会のチケットをお渡ししたいんですが、先生は昼休みどこにいらっしゃいますか?
 なんだか決意してものを言っている風情だった。まえもって顧問の先生に自分の意思をきちんと伝えたなんて見上げたもんだ。
 4階の準備室で会う約束をした。
 
 内田樹の講演のなかに、次のような挿話がある。
 神戸女学院に赴任した一年目。7月ごろになって研究室に現れた学生がいる。
──先生、わたし3ヶ月間、先生の講義を一生懸命聴きました。でもまったくわかりませんでした。
 あの男の教師としての人生は、その瞬間から始まった(のだと思う)。
 「神戸女学院でよかったね。」
 この三ヶ月、似たような幸福感を味わっている。
 そのぶん、疲労の蓄積度は相当のもので、自分の一学期は来週で終わるというだけで、幸福なんてもんじゃない。「このまま教員生活が終わっても文句はない。」
 昨日は配偶者のおっかさんの七回忌。
 またひとつ区切りができた。

 前回送った内田樹の講演で、彼がイスラエル研究会会員に言っていることは強烈な皮肉です。「あんたたちは本来の学問の目的を見失っているんじゃないの?」
 孔子のことばと引用するならば、「古の学者は己のためにし、今の学者は人(からの評価)のために」学問をしている。べつに21世紀にはじまったことではないんだけど。

別件
 信州の男がメールを送ってきた。
 その中の末尾部分の一節。
 彫り終えたばかりの仏像を前に、仏師に言った坊主の言葉がある。
 「これから我々があなたの作ったものを、月日をかけて仏にしていく。」
 何度でも言う事になるかも知れないが、
 個々(地域)の文化を存続していく事は、伝統と言う事である。
 伝統というのは、エントロピ−増大に抗う運動である。