洪明甫を久しぶりで見かけた

2012/08/11(土)

 本日は雨。
 久しぶりのような気がする。畑の野菜も息を吹き返すだろう。
 今年はキュウリと甘ウリが豊作で、まだしばらくは楽しめる。(サツマイモは別格。たぶん、10月ぶんくらいまでありそう。)トマトはさすがに終わりがけ。ニガウリはこれからが本番かな。
 ナデシコの表彰式のときの笑顔は最高だった。言いようもなく美しい。うっとりと見とれていた。
 だれだったかな、日本が降伏(つまりコリアが光復)したとき、韓国の娘たちが民族衣装を着て町にくりだした。「こんなに美しいひとたちだったのか」と驚いた書いていた。
 日韓ワールドカップのときだったか、一大決戦に勝った韓国チームが、帰ろうとしない観客に(たしか土砂降りの雨の中)いつまでもグランドでサービスをしていた。「ああ。韓国もやっとフツウの国になったんだな」なんともいい風景だった。いい風景だったし、羨ましくもあった。
 昨日のナデシコの笑顔にも同じことを感じた。日本の女たちを、あんなに美しいと感じたのは、いつ以来なんだろう。
 男子の日韓戦は見ないまま。
 韓国の監督が洪明甫とわかって、なんだか見たくなくなった。ホン・ミョンボにはけっこうな思い入れがあるのです。
 ジャパンが監督のことでゴタゴタしていた時期があった。自分が50ぐらいだったと思うから15年前ぐらいか。そのとき、「ほんとうにジャパンを強くしたいのなら、ホン・ミョンボに頭を下げて監督になってくれと頼めばいいんだ」と、これは思っただけじゃなくて、盛り上がっていた若手たちに話した。ところが、「そんなこと、むちゃくちゃですよ。」
── こいつら、なんもわかっとらん。
 Jリーグで活躍していたとき、かれには、もう日本人が喪っている精神性を感じた。分かりやすく言うならサムライ魂を感じた。あの時も、いまも、サッカーやラグビーのような競技には、いや多分その他の競技にも、欠かせない精神性がまだ日本人には見受けられない。
 それに、もし、日本がホン・ミョンボに監督就任を頭を下げて依頼したら、(ホン・ミョンボが受けたかどうかは別として)その後の日韓関係は今とはまるで違った様相になっていた。「それぐらいのことで国家間が変わるはずがない」と言う人は、国対国というものがまだ分かっていない。とくに韓国の場合、○ミョンバクよりは、サッカーナショナルチームの監督のほうが大切にされる。次期ナショナルチームの監督はホン・ミョンボなんだろうな。あるいはすでにそうか。しかし、かれは直情径行型の人間だから、韓国のおえらいさんたちからも煙たがられているかも知れん。
 が、かれが韓国を率いたら、サムライ・ジャパンは厳しくなるかもよ。だって、日本のサッカーは相変わらず技術的なことにばかり走っている気がするから。技術や速さは必要。が、もっと大切ものが心だ。
 あれも日韓ワールドカップのときだったか、予選リーグで韓国も日本もそれぞれ勝てそうにない相手とあたったとき、戦い方がまるっきり違った。日本はひいて、勝ち負けよりは得失点差をひろげないようにすることに終始した。韓国は強敵に真っ向勝負を挑んでボロ負けした。が、韓国のほうが正しい。現にそのあと、日本が敗退したあとも韓国は快進撃をした。
 ぜんぜん話が変わるけど、メディアは大切な政治のことを、単なる政局の問題に矮小化してしまう。国のことを最優先させている行動を、自分の身のための行動としてしか評価しない。自分たち(でさえ)がそうだから、無私とか滅私ということを信用しないし、それはあり得ないと思い込んでいる。
 えらいひと、という概念をこの国は失っている。フツウのヒトだけが評価の対象になる。
 オレには、ホン・ミョンボはエライ人に見える。あの国から学ぶべきことがわれわれにはあると思うよ。

 『日本の文脈』読了。
 面白かった、などという言い方は当たらない。なにかをもらった。あんがとさん。
 ただ、後半の社会に対する具体的な提言の部分になると、首をかしげることが多々ある。
 学校も病院も介護福祉施設もほんらい贈与の精神ではじまったものだから、そこにビジネスの論理をもちこむのは間違っている、と内田は言う。中沢は、自然からの贈与を有効活用する政策を実行するすために「緑の党みたいな」政党をつくるという。これからは農業の時代なんだ。
 前半の理念はいい。
 が、学校も病院も介護施設も、ビジネスになったから日本中に広まったんだ。私立学校がぼろもうけできると気づいたはしっこい連中のおかげで日本中に雨後の筍のように学校ができた。もちろん創立者のなかには高邁な精神の持ち主が少なくなかったろうと思う。が、それは一代で終わり。あとは単なるビジネス。病院もいっしょ。介護施設にいたっては、むかし公共事業、いま介護事業。土建屋さんがデイサービス・センターやグループ・ホームを作り、あんちゃんたちにヘルパーの資格を取らせた。
 が、それを否定して何が残る?
 たしかに、本気で人々のために施設を作ろうと、遅れて考えた人たちはいま、金がなくなった国の抑制策のために申請しても音沙汰なしの状態におかれている。(たぶん、申請書が受理されないんじゃないかな。いつものお役所のやりかただ)
 が、金と欲でおおくの施設ができたおかげで、老人たちは自分の居場所を得られ、失業率の上昇が抑えられている。
 濡れ手に粟の教育産業のおかげで、若年失業者の増加が緩和され、いまの競争社会ではとても生きていけないようなトロい大人たちにも多くの就職先ができた。親戚の病院経営者によると、黒字は年数億円だという。「病院建設費用は予定の半分以下の期間で返せそうだ。銀行が金を借りてくれち言うてくるけど、もう使い道がない。」
 経営が(ビジネスとして)成り立たないところは消えていく。そのときに関係者たちが、私財を提供して存続させようとするところは別。しかし、それだけでは多くの学校や病院や福祉施設はたちゆかない。
 もともと、人々の金や力への欲望を喚起したことと近代化とを別々のこととして捉えたら何も見えなくなる。その欲望だけが人間の本質だという考え方は間違っている。と同時にその欲望なしに社会を動かそうというのはもっと間違っている。第一、内田や中沢やおれたちサラリーマンの税金だけでは国はやっていけないよ。
 農業の大切さは、どれだけ大きな声で言ってもたりない。
 しかし、ビジネスとして成立しない農業には一部の特殊な人間しか従事できない。ならば、多くの人々が別の方法で現金収入を得つつ農業に従事するありかたで、これまでのようなサラリーマンをやりながら米作のみをおこなうという不健康かつ非効率的ではない農業の具体的プランがほしい。そのとき重要なのは、「多くのひとびと」の生活(子どもが「大学に行きたい」と言ったらそれをかなえてやれるだけの収入が得られること)が成り立つ方法なのだ。秘教的少数派が必要としているもひとつの「学校」は、これからきっと増えていくだろうが、それはあくまでガッコウのもひとつの形態にすぎない。
 内田の言うとおり、エコ政党は危険だよ。なぜならそれは、精神主義的政治運動だからだ。
 もういっぺん繰り返すが、金と力への欲望だけで人が動き、社会も動いていると考えるのは間違っている。が、と同時に、金と力への欲求を抑えつけたり無視したりしたのでは、この社会はたちゆかなくなる。万が一そうなったときは、精神主義的政治運動が一気に拡がっていくだろう。

追加
 思いだしたことがあるから付け加える。
 明治大学は、やたらと商売上手なのだそうだ。
 あちこちの土地を。○○予定地として買い、値があがったところで転売する。(学校法人だから税金は最低限)おかげで教職員の待遇はいいと先生から聞いたことがある。
 大学がロックアウトしていたとき、食いっぱぐれそうになっていたら、たまたま校内警備のアルバイト口があった。やたらと効率のいいアルバイトだった。ただし、いっしょにやっていた空手部かなにかに言わせると、クラブ全体で日大の警備を請け負ったときの効率のよさはこんなもんじゃないかった、そうだ。なにしろ合宿費がいっぺんで稼げたと言っていた。
 仕事はただ焚き火の番をしているだけで、係のその先生がいろんな話を聞かせてくれた。(逃げださずにちゃんとシゴトをしている先生もいたのです)「ユニフォーミティー」という言葉を教えてくれたのもその先生だったはずだから社会学か何かが専門だったんだろうが、名前は覚えていない。
 そういや、「○○が今夜襲撃してくるという噂がある。心細いから手伝いにこい」というので、法政大学で一晩すごしたこともある。アゴつきだということだったが、インスタント・ラーメンだけだった。けっきょく何ごともなかったのだが、特殊なラジオを持っているやつがいて、一晩中機動隊内の交信を聞いていた。あれも不思議な体験だった。
 韓国はオレにとっての第2のガッコウ。街中が第3のガッコウだったのかな。