この夏は西陵高校管弦楽部

2012/08/23(木)

 まず、前回ばらばらっと話したことをも一度まとめます。
 人類の(いや生物全体だ)生活に欠かせないものは水と空気。そのうちの水をその一部でも管理(つまり治水)するようになったのが文明の勃興。
 その水を「たかが水」と考える日本人は現実音痴だ、と言ったのがイザヤベンダサン。そう言えるのはこの地球上で稀なことなんだよ、というのだが、たぶんわれわれはまだそのことがピンときていない。アメリカもオーストラリアも中国も、近い将来、その水の不足で悲鳴をあげるようになる。この国土は気象条件が変わらないかぎり、安穏に暮らせる。が、その気象条件がだいぶ面妖になってきた気がする。
 文明にとって、水の次に不可欠になったのが火。その活用によって人類の生活条件はさらに飛躍的に向上した。そして、電気。現代の都市文明はその電気なしでは決して考えられない。その電気を「たかが電気」と言ったミュージシャンの低能ぶりにアッケにとられた、というのが前回の話。(アイルランドの小学校では、まず自分たちの地域で、それらの文明がどのように進化したかを実地学習するところから歴史の勉強をはじめるという。)
 もちろん、電気は別に原発だけに頼る必要はまったくない。
 しかし、現在の都市文明を維持するのに必要なものがあとひとつある。それが「たかが金」だ。電気同様、あるいはそれ以上に、この金が都市内のみならず、都市間を行き来することによってわれわれの生活が成り立っている。
 この前の戦争のとき、「日本はそこまでバカじゃないだろう」とアメリカが考えていたのは、日本にとって最大の貿易相手国がアメリカだったからだ。金の行き来がとまったらその国は生き延びられない。「日本はそこまでバカじゃないだろう」しかし、日本はバカだった。カネ以上に不可欠なものがなにかある気になったのだ。それを精神主義という。ナチズムも同様に思えるし、いま中東で起こっていることにもその影を見る。カネというのは、そうとうに合理性をもったものなのだ。世界を揺さぶりつづける国際ファンドという奴をふくめて。
 カネはこの文明にとっての血液なのです。それなのに、原発問題をそのカネを絡めずに考えようという発想そのものがまったく気に入らない。それは理性を放棄するに等しい。
 「わたしたちの文明そのものに疑問が生じてきたのです。」という、デモ参加者の発言はなかなかよろしい。が、だったら、集まった10数万人が一斉に、「たかが電気」と発言したミュージシャンもいっしょに、持っている携帯電話をへし折り、足で踏みつぶしなさい。(そのパフォーマンスが終わったあと、すぐ帰り道にドコモ・ショップなりAUなりに飛びこんで新しい機種に変更すればいいだけだ。)そうしたら、日本だけでなく、世界のテレビや新聞が大々的に報道するよ。
 思いだした横道の話。
 ヒッピーがはやっていたころ、「あいつらを尊敬していた」わが師は横浜から東京まで、わざわざヒッピーに会いにいった。どこかの公園でたくさん野宿していたらしい。「だめだ。あいつ等は不潔すぎる。失望した。」その発想の非現実さにこっちは笑った。
 カネのことだけしか念頭にないような人間の言うことにまともに聞く気にはならん。が、カネを「空気みたいに」考えから省いて現実を見る人は、ただの絶対的音痴だ。その人と音楽の話はできない。

 やっと今日の話。
 来週から二学期がはじまる。きのう、体育祭前後の臨時時間割ができたので、そのプリントを持ち帰って、舌なめずりしながら確かめた。なのに、休業日は一日増えるだけだった。がっかり。なんとも上手にジイチャンの授業は確保されている。ま、いいけど。
 北海道旅行からはじめた夏休みのエポックは、「パルパル」と呼んで楽しみにしていた8月8日わが福岡西陵高校管弦楽定期演奏会だった。これはほんとうに良かった。どのくらい良かったかというと、帰りに、これまでの演奏をまとめたCD3枚組を2、600円も出して買ったほど。(過去の演奏のなかに、ブルッフのチェロ協奏曲「コル・ニドライ」が入っていたのです。高校生たちがあの曲をどう演奏しているのか、楽しみは涼しくなってからにする)
 高校に入ってはじめてバイオリンに触ったという高校生たちだというので、「ちゃんと演奏できるのかな?」と心配したのはまったくの杞憂。演奏会の間中ただただ音楽を聴いていた。本人たちの努力もさることながら、指導している大人たちを尊敬する。どんな場所にも、かならず人物はいる。
 パンフレットをみると、授業に行っているクラスの子が、バイオリン、ビオラ、ピッコロ、トランペット。ほかにもいたのかもしれない。
 が、なかでもびっくりしたのは、ピアノとオーボエティンパニー。この三人はそのまま音楽家への道に進んでほしいと感じた。なかでもオーボエは出色で、ひょっとしたらひょっとするぞと名前を覚えた。ヤマシタさん。その音色はみなにも聴かせたいくらいに切なく、美しく、しかも現実的だったよ。(スゲエ)あとで下の名前も確かめてみよう。いつか大人になったヤマシタさんの演奏を聴く機会があるかもしれない。

 学校では夏季補習と並行してすでに運動会の練習が始まっている。課題が時間内に終わりそうにないので、「少し延長していいか?」と訊くと、嬉しそうな顔をして、「すぐに体育館に集合するように言われています。」そうね。運動会のほうが大事だよね。そのほうが学校らしい。

別件
 公園のラジオ体操も明日までなんだそうだ。ラジオがかかりはじめると、出席カードを首からぶら下げた子が走って駆けつけてるのを見るのは、なんとも幸せな気分だった。
 すばらしい朝がきた。希望の朝だ。喜びに胸を開け、大空あおげ。
 小学生の頃、あの歌が好きだった。いや、いまも好きだ。そんな夢見る少年が、いま夢見るジイチャンになったことに満足感がある。
 今度の日曜日は団地の夏祭り。
 今年の子どもたちの踊りは「ソウラン音頭」。去年は「朝ご飯はなんでしょね」だった。もう高学年になった前の家のリオンちゃんに「今年の踊りはかっこいいね」と言うと、大きく肯く。本人たちも気に入っているらしい。
 指導しているのは近所に住むセンセイ。この人の表情の厳しさ、てきぱきした物言い。遠くから見ているだけで、「あ、センセイだ」と感じる。きっと学校では子どもたちから怖れられ、尊敬されていることだろう。
 西陵の管弦楽部女性顧問も、そのセンセイの前にいるときは生徒の背中がピンとなっている気がする。(ジイチャンの前にいるときはまったく緊張感がない)どうも、教員としての資質は女のほうが優っているのかな。