井筒俊彦「大乗起信論」の哲学

 しばらくこの本にはまります。面白くってしかたがない。「待ってました」という感じ。タイミング抜群。
 どうしていつもこんなに、最高の巡り合わせが起こるんだろう。それを不思議がっているうちに64になった。
 読みはじめて二度目。30頁ほどで、「今日はここまで」。こっちの頭が動き始めてしまうのです。我が師の文章を読んでいるときが、こんな感じだったな。
 井筒俊彦はこれを中国人が著した偽書の可能性があるという。読みはじめてすぐ「うん。これは荘子の時代に書かれている。」
 白川静はぜったいにこれを読んでいる。もちろん「大乗起信論」のほう。
 真如ということばが出てくる。
 「一切諸法は、ただ妄念(=意識の意味分節作用)によりて差別(=分節)あるのみ。もし心念(=分節意識)を離るれば、則ち一切の境界の相なし。是の故に、一切の法は、もとよりこのかた言説の相を離れ、畢竟平等にして、変異あることなく、破壊(はえ)すべからず、唯だ是れ一心(=全一的な意識)のみなるを、ことさらに真如と名づく。」
 「一切の言説は仮名(けみょう)にして実なく、ただ妄念に随えるのみにして不可得なるを以ての故に、真如と言うも、また相(そのことばに対応する実相)あることなし。──言真如亦無有相──」
 白川静は「真」を、行き倒れの屍体だという。「それを荘子系の人々が、現在つかわれる「真」の意味に転用した。」
 その「真」を井筒俊彦は、「虚妄性の否定」のことだと言う。「本来、形而上的なるものは絶対無分節だ。無辺際、無区別、無差別な純粋空間・・・のようなものを、そのまま把捉することにおいては、言語は完全に無力だ。」
 分別がないということは始まりも終わりもないということだ。
 自分のイメージするユダヤ教のカミがまたそうだ。
 井筒俊彦は言う。
 「我々の実存意識の深層をトポスとして、そこに貯蔵された無量無数の言語的分節単位それぞれの底に潜む意味カルマ(長い・・歴史的変遷を通じて・・形成されてきた意味の集積)の現象化志向性に促されて、なんの割れ目も裂け目もない全一的な「無物」空間の拡がりの表面に、縦横無尽、多重多層の分割線が走り、無限数の有意味的存在単位が、それぞれ自分独自の符丁(=名前)を負って現出すること、それが「分節」である。われわれが経験世界で出遇う事物事象、そしてそれを眺める我々自身も、全てはこのようにして生起した有意味的そんざいにすぎない。存在現出のこの根源的事態を、私は「意味分節・即・存在分節」という命題の形に要約する。」
 今日はもうすぐ終わります。
 著者の話は「混沌」にうつる。
 「混沌とは、普通の意味でのカオス・・・ではなくて、まだ一物も存在していない非現象、未現象の、つまり絶対無分節の、「無物」空間(=真如)を意味する。」
 「混沌の死は、たんに死んで居なくなってしまった、ということではない。むしろそれは実在の決定的な次元転換を意味する。絶対無分節の、本源的非分節、から分節態へ。非現象性から現象性への存在的次元転換──というより次元転落という方が荘子の真意にちかいか──である。」
 この「混沌という藭」はまさに、ユダヤの藭としか思えない。(ご本人たちにとっては「全然ちがう」らしいけど)
 と同時に、先日読んだばかりの中沢新一が言うグノーシスの考え方ともダブってくる。 「グノーシス派の考え方だと、原初の時、藭の光に満ちた世界に霧がかかり、藭=発光体は自分の影が霧に映ったのを見て自らの存在を知った。それまで自分がいることを知らなかったのに。その瞬間に堕落が起こって物質が発生した、という考え方をします。・・・・正統派の考えよりアジア人の僕には深く納得できる考え方です。」 
 グノーシスの「堕落」、井筒俊彦のいう「次元転換」、白川静のいう「転用」。それらはみな同じことのように思えるのだが如何?

 一息入れるために、「あとがきに代えて」を開く。その末文。
 「すぐ近くで、そして遠くで、文字通り井筒俊彦の意識(こころ)の生命(いのち)を、現意識(うつつ)のことばの生命(いのち)を、支えてくださった読者の方々に対して──彼の魂が今そうしているように──私も又いま、無限の感謝を捧げたい。
  忘れては
  夢かとぞ思う
  思いきや・・・・・・
 ・・・・故人が申し上げる筈であったお礼を今この紙上で故人に代わって申し上げたい。
     一九九三年二月七日
                       鎌倉にて
                       井筒豊子 識す

 そうだ。思いだした。井筒俊彦が亡くなっていくばくも経たない頃、豊子さんの寄稿を読んだ。なかみは百%忘れたが、ご主人以上の人物なのではないかと感じられた。あるいはその部分だけはいまも本棚にあるかも知れない。よし、これから探そう。

別件
 帰途、今宿駅の前で車を待っていると、そばに中学生の男女が二人ずついた。
 女の子が男の子に、「○○クン、そのヘアスタイル似合うとる。」無反応の男の子に女の子はムキになって、「○○クン、そのヘアスタイル似合うとる。」その一途さを微笑ましく思っていると、もう一人の男の子が、「もう、止めり。お爺ちゃんが笑いよろが。」思春期っていいですなあ。
 あまりの声のかけたさに
 あれ、見さいなう
 雲が
 雲がゆく