井筒俊彦『大乗起信論の哲学』を読む〈Ⅱ〉

 福岡も涼しくなった。
 とは言え、いまちょうど12時だが、袖無しのシャツとステテコで机についているのだから、どちらかといえば、まだまだ夏なのだろう。

 第二部を読んだところ。
 また、こちらの頭のなかのどこかに電流が通ってパチパチいいはじめ、どこかが動き出してオオゴトになっている。だから疲れる。たとえば、夜見る夢は、どことなく宮澤賢治の童話めいている。かれの童話は『注文の多い料理店』に限らず、じつは恐ろしい。
 野見山暁治さんは「美とは残酷なものなのかも知れない」と言う。そして、坂本繁二郎が野見山さんの絵を評価しなかったのは「真善美」の真と善が欠けていたからなのだろう、とも言う。が、すこし違う。「真」とは残酷で恐ろしいものなのだ。絶頂期の坂本繁二郎にはそのことが分かっていなかった。あの能面に「真」はない。
 「美」は「真」の現れ。
 野見山さんの感じたことは、「美の奥には残酷さが潜んでいる」ということだった。・・・そうなんですよね?

 『大乗起信論の哲学』の序論によると、第一部は「存在論」的視座から、第二部は「意識論」へ。そして第三部は「実存意識機能の内的メカニズム」となっているのだが、読みかけているこちらの頭のなかでは、西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」というイメージが常に浮かんでいる。
 文脈はまったく忘れた。だが、井筒俊彦の言おうとしていることとは別の文脈だという記憶はある。しかし、その拠ってくるところは同じなのではないか? 
 そんな気がしてならない。西田幾多郎の苦闘は受け継がれ、芽を出した。

 第一部で著者は、イスラム哲学によりながら、次のようなことを言う。
 「コトバを超え「名」を超えるこの真実在(存在=ウシュード)には、自己顕現への志向性が、本源的に内在している。宗教的言辞で言うなら、「隠れた藭」は「顕れた藭」にならずにはいられないのだ。
 自己顕現(タジャリー)へのこの本源的志向性に促されて、無名無相の「存在(ウシュード)」は、次第に・・・「色とかたち(ナーマ・ルーパ)」の存在次元に降りてくる。・・・これは無分節者が無分節性を離れる第一歩である。」
 絶対無分節(=無意味)の藭には「自己顕現」の志向が内在している、というのだ。ちょうどたった一つの細胞である「全体としての個」の卵には自己を無限に分割する意思が内在しているように。
 藭に内在している「自己顕現」の志向。
 ユングが『ヨブへの手紙』のなかで言おうとしていたのは、それだ。が、「絶対無分節の藭」にとってそれは、「絶対矛盾的自己同一」なのではないか?
 井筒俊彦はそれをも含んで、別の言語表現にたどりつく。
 「生来言語(ロゴス)的存在者である人間の、逆接的宿命」に随う。
 「言語を超え、言語の能力を否定するためにさえ、言語を使わなくてはならない。いわゆる「言詮不及(詮は筌か?)」は、それ自体が、また一つの言語的事態である。」(第一部)
 「こういう漠然とした意味での文化的普遍者「意識」が、前述した仏教用語の「心」と意味的に相応しないことは、始めから誰の目にも明らかであろう。先刻も言ったことだが、無理に「心」を「意識」などとホンヤクしないで、そのまま放っておいたほうがよほど簡単だ。だが、そうだからといって、我々が何の努力もせずに、相変わらず「心」の一語を昔どおりに使い続けていくだけでは、我々自身の思想にダイナミックな進展はなく、「心」のほうでも活力を失っていくだけではなかろうか。
 およそこのような憶いに促されて、私は敢えて古い仏教語「心」を、現代の文化的普遍語「意識」にホンヤクし、そこに「意識(=「心」)」という一種の間文化的普遍論を構想しようとする。と言っても、「心」と「意識」のあいだにある意味のズレを消去しようとするのではない。むしろこのホンヤク操作によって、「心」の意味領域を「意識」の意味領域に接触させ、両者のあいだに薫習(※薫はくさかんむりのない「クン」。)関係を醸成しようとするのだ。・・・(クン習は、要するに俗に言う「移り香」現象のことだ)」(第二部)


 抜き出しばかりで「面白くない」と言われそうなので、この辺までにします。
 が、著者の意図は、この転換と融合にあるように思われる。その「移り香」的転換や融合はもうほとんど詩に近い。
 最後に、「真如」と「如来」の関係への言及が新鮮だったので、書き写して本日はおしまい。
 「真如」の存在創造性というポジティブな符号づけをして、この次元での「真如」を、『起信論』は「如来蔵」と呼ぶ。すなわち「如来蔵」とは、無量無辺の「功徳」(=存在現出の可能性)を帯びて(われわれの意識)領域に存立する「真如」の名称である。

別件
 30年前の井筒豊子の文章に再会した。1982年(中央公論四月号)というと、自分はどこで何をしていた時なのだろう? 井筒俊彦が亡くなったのは1993年。その10年以上前ということになる。
 それは次のようなモロッコに向かう機中での思いから始まっている。
 「突然のように聞こえてきたアラビア語の機内放送は、もっと直接に、不意に、私の胸にしみた。
 貝殻に海鳴りの音を聞くように、私は、その変哲もない機内放送のアラビア語に耳を澄ました。橙色の砂漠を吹く風の音や、アレッポ、ダマスカスなど、砂漠の都の、其処だけ黒ずんだ市場の雑踏。羊皮や羊肉の匂、イスラム寺院のドームやミナレット、アラビア音楽。典型的と云うか、陳腐と云うか、だが確実にアラビア的な、ありとあらゆる色や、形象や匂や、物音を、アラビア語のその響きは内蔵しているかのようだ。
 固有の言語文化圏の歴史的時間の場で、変転しつつ発展してきた意味分節の、重層的な堆積。そして、それの共時的連鎖連関として成立している意味分節やイマージュの網目組織の、広大な無限の拡がり。その可能総体を、そして、その固有文化の固有性の全てを、そのコトバの持つ固有の響きの片鱗が、いわば限りなく微妙な色のニュアンスのように、その内部に混在させているかのようだ。
 日本語をはじめ、固有言語とは、どれもそのようなものであるはずだが、アラビア語の持つ響きは、時として泡立つように、あるいは澎湃として、それを私に感じさせる。」
 ・・・
 「知的精神的危機(この時、夫君が参加したのは「現代世界に於ける知的、精神的危機」というシンポジウム。イラン革命の動揺がイスラム世界に広がっていた時らしい)は、戦争と平和以上の問題を含んでいる・・・私のイメージ空間には、・・・生き生きと甦るものがある。″聞け、わだつみの声″と題した、戦没学生の書簡集の粗末な初版本だ。・・・緑色がかった灰色で色刷りされていたその表紙一面に、蒼海の波が写真版で入っていた。・・・私はその波を見つめ、そして泣いた。あの頃、人々は云った。文化人が、教育者が、ジャーナリストが、会社員が、百姓が、そして誰かが、死を賭してでも叫んでいたら、こんなことにはならなかったろう、学生たちを、若者たちを死なせはしなかったろうにに、と。今は故人となった仏文学者の辰野隆博士は、教え子を先立たせて生き残った老いの身を、痛恨で鞭打ちながら、追悼の序文を書き綴った。おして、そのとき、生き残った若者の一人だった私はもうまもなく、その頃の辰野博士と同年輩に達しようとしている。誰かが叫んでいたら、皆が声を合わせて叫んでいたら・・・・戦争は起こらなかったろうに、と人々は、そして私も半ば本気でそう思った。今にして思えば、そう思ったことも、″聞け、わだつみの声″の表紙一面に揺れる無言の蒼海に、止めどなく滂沱たる涙を落としたことも、生き残った者の安息の吐息と、感傷的な甘えにすぎなかったかも知れない。
 実存の危機的状況とは、たしかにその頃も今も、そして今はなおさら、そのように単純に選択可能な、そんな事態ではないかも知れない。・・・」

 大正14年生まれとあるから、存命であれば80代半ばか。
 なんだか、女学生がそのまま大人になり、中年になり、いま老境に達していらっしゃるかのような印象がある。