夜よねむれ 最終章
眞実のむこう
古人は宿る場所を確保できず仕方なしに旅寝をしたのではない。
彼らは草を枕とするためにたびに出たのだ。
もう十何年かまえになる。
篠栗駅からタクシーに乗ったとき、
八木山がところどころ色づきはじめているのに気づいた。
──もうすぐ花見の季節ですね。
初老の運転手さんが応じた。
──はい。今年も桜が咲き始めるとが待ち遠しいですなあ。若い頃はなんとも思わんやったとが、なんででしょうかなあ?
ほんとですねと笑った。
あのときは、
「若い頃はなんとも思わんやったとが」に共感して笑ったのだと思っていた。
それはそのとおりだったのだが、いまは感じ方が変わった。
ほんとうはあのとき、
「なんででしょうかなあ?」に包まれていたのだ。
われわれも、われわれの世界も、その
なんででしょうかなあ?にすべて含まれている。
運転手さんはきっと、なにも意識せずにそのことを客に教えてくれていた。
*
藭には過去がない。
記憶をもたない。
他者を知らない。
「存在」という有限なものとは無縁だから藭なのだ。
*
勘三郎の法界坊をテレビで見た。
見ながら転げまわって笑った。
笑っているうちに声をあげて泣いていた。
あの徹底的な娯楽劇の、あけっぴろげとしか言いようのない哄笑のなかに
人生に必要なものがすべて綯いまぜになっている。
*
それが純粋な事実なら
意味は析出されるべき不純物にすぎない。
しかし、
現実の事実には、
不純物のみでなりたっているかのごとく無数の意味が充満している。
*
ビューヒナーとアルバン・ベルクのボツェックをも一度見たい。
いや、これからの節目節目で見たい。
節目がまだ来るのかどうかも、
その節目が来たときにそれを節目だとわかるかどうかもわからないけど。
見たくも聞きたくもなく、
触りかけたら鳥肌がたちそうなのに、どっぷりと漬かりこんで、
呼吸する場所をいつも探りあてるのに馴れてしまった、
たったひとつきりの現実。
2012/09/15