母上は96歳

2012/10/21
 夕方の散歩中、やっとこさで歩いている方に出会った。
──可愛いですなあ。わたしはマルチーズのような「ぼくは可愛いよ」という顔は好かんとですたい。これぐらいグシャグシャの顔のほうがいい。
 いろんなほめ方がある。
 最近出会わなくなったが、夏場はシュミーズ一枚で道路に出てタバコを吹かしている中年女性がいた。いつもじろっともの凄い目でチビたちを睨みつける。ちょっと凄みがありすぎるので、そのおばちゃんとは目が合わないようにしていた。ところがある日、いつも以上にじろっと睨んだあとで目をこちらに向けたので、ちょっと緊張すると、
──どっちでもいいから一匹置いて行き。
 自分でもウイットに富んだレトリックが使えたのに満足したのだろう、目が和んだ。こちらが笑うと、彼女もにんまりしてまたタバコ。
 これまで聞いたほめ言葉のなかで、あれが最高級だった。
 今日の帰りにはまた、「男のほうが弱いと」の女の子たち、2家族合計4人と会う。
──あ、こっち、女のほうがいいよ。
 近寄られたピッピチャンネルは、それが勤めであるかのように、ころっと横になって腹をみせる。
──ね。この子のほうが強いと。
 ガロサウルスは男の子から撫でられるとさっさと別の方に行く。
──わあ、気持ちいいち言いよるよ。良かったねぇ。
 と、これはお父さんのことば。
 でもね、ピッピはほんとは一生懸命我慢しているんですよ。
──よし、バイバイしようか。
 びくんと立ち上がって、「さあ、帰ろう!!」
──ばいばあい。またね。
──ピッピえらかったね。家に帰ったらご飯だぞ。

 日曜日の朝刊の読書欄のような、人生相談のような欄に、××大学哲学教授。
 あなたの周囲に、「この人には是非親になってほしい」と思うような立派な人がいますか?そんな人は滅多にいません。
 そりゃおかしいやろ。オレの教え子のには、もう母親になる準備が整いつつある17歳がたくさんいる。たぶん心も体も。その自然さが好きで通っているようなもんだ。
 哲学教授の文章は、「不完全でもいいんですよ」という話になってはいくんだが、どうも気に入らん。
 西陵生には是非親になってほしい。立派な人間になるのはそのあとの話だ。
 男の子はさすがに体はともかく心は「まだ10年はやい」と感じるが、それも目一杯譲歩して「あと5年はやい」。せいぜいそんなもんだ。
 ただし、30代のとき行っていた学校には、あれのことしか考えていないんじゃないかという生徒たちがいて、彼らにはさすがにお手あげだった。(心配なさるな。二日市の学校のことではありません。第一、当時はまだ、女の子はほんのわずかしかいなかった。)
 学校では、生徒たちと教員たちに、なんだかズレがあるような気がして、その原因がわからなかった。いまは、ひょっとしたら、育ち方の違いなのかなと思い始めている。生徒のほうが早熟。教員になる人は晩熟が多いのかも知れない。だから、自分の中学時代や高校時代と比較して、生徒を「なんだかイヤらしい」と感じているのではないか?
 小学校が比較的うまく行っている理由のひとつは、小学校の先生になる人のほうが早熟タイプが多いからなのではないでしょうか?
 前にも話したが、ある東京に出ていった教え子はすぐに、「セイセイ、あいつヤバいですよ。もう下着を洗って帰る女ができていますよ。」ということになった。田舎から出てきた三四郎をパクっと食べた東京の女の子がいたのだ。その赤ちゃんつきの結婚式は、なんともナゴヤかで楽しかった。どんな女の子か興味津々だったのだが、ヒマワリのような笑顔の持ち主だった。「うん、これなら大丈夫」
 早熟であることに、いいも悪いもない。早熟であるなら早熟なように、晩熟であるなら晩熟なように。それぞれの生き方がある。もちろん、チクゴタロイモのように、心と体のバランスがとれていない場合もあるわけで、それはそれでどちらかに合わせるしかなかろう。
 今年「やっといい相手に出逢えました」と結婚通知を寄こした卒業生は、たぶん30代後半のはずだ。そのうち、奥様にも会う機会があるだろう。「よく、この男と結婚する気になったね。」

別件
 10月20日は母上96歳のお誕生日。
 顔を出した息子に、
──あんた、大きゅうなったねぇ。
──うん。大きゅうなったろう?
 山下のお爺ちゃんが、
──目が見えん。どの人が96な?
 と近づいてきて、
──あなたが96歳ですか?と訊くと、母上はその指をそっとずらして隣にいる最も若いかわいらしい介護士さんの方に向ける。
──わたしが96ですか!?
 お爺ちゃんのほうは全く気にせず、
──96か。そりゃめでたい。どうもおめでとうございます。
 そういうお爺ちゃんももう93歳。