技術の時代

2012,10,29


 前回送った、吉田健一の文章についてひと言(では終わらないかも知れないけど)。
 出張がはいったので放課後の課外補習の代講を頼まれた。それがたまたま吉田健一が『虞美人草』を評している文章だった。
──そういやまだ『虞美人草』を読んだことないなあ。
──それが、『虞美人草』は面白くないという文章なんです。
 読みはじめたらワクワクしてきた。で、次の日、その教員にその気持ちを伝えると、
──??
 たぶん、「漱石の作品だから優秀でなければならない」派なのだだろう。
 若い頃、漱石の創作ノートのようなものを眺めたことがあるという話は以前にもした。
 一日分ずつ、きちっと最後まで構想が練られていて、ところどころには文章まで添えられている。つまり、書きはじめるときには、すでに最終日までのぶんが頭のなかに出来あがっていたのだ。──なんという頭脳!──しかし、何という面白くなさ。
 これも大昔、教員になりたてのころだから20代後半。なにかの問題集をやっていて、イギリスでドイツ哲学を教えているという男の文章に出会った。(名前を思いだしたら、あとで付け加えます)実は「人間とは約束をする動物のことだ」という言葉を思いついたのは、その人の文章を読んでいるときだった。いわば、恩人のひとり。
 ところが、その人の本が売れて、日本の状況についても発言するようになると、ピンボケもいいところで、「やっぱりダメか。」
 その人が漱石について発言したものも読んだことがある。そのなかに、「漱石の残した仕事の中でもっとも優れているのは″文学″を科学的に分析したことなんだが、それを誰も評価しないのが不思議だ。」という意味のことを書いているのでびっくりした。
 全集になら入っている筈だから、暇なときには見る値打ちはある。「文学」なるものの要素を徹底的に分析し、図表化している。モチロン「ついて行けない」。そんなことをして何になるの?
 ただし、明治が科学の時代だったことの証明としての歴史的価値はじゅうぶんにあると思う。思うし、そういうことを、つまり「美學」的なイメージの「文学」という学問をつくろうとした漱石というひとは、たしかに明治の人だったんだと思う。しかし、かの偉大な頭脳は、けっして日本のゲーテにはならなかった。?外もそうだ。日本にはそういう「全体」を見るという文化的風土がなかったんだ。今も。
 こっちに言わせると、漱石の構想した文学という学問は、ほとんど工学のイメージにちかい。
 清沢洌『暗黒日記』には、「教育の失敗だ。理想と、教養なく、ただ『技術』だけを習得した結果だ」とあるという。たぶん、その通りだ。しかし、それは実は、教育以前の問題だったように見える。
 西洋文明を受け入れるずっと前から、この国は「匠」の国だった。部分に嵌ることがその人を成長させた。その外側に関心をもつのは邪道だった。だから、専門家は自分の専門に専念した。それが、純粋な生き方だった。この国には専門家ばかりがすくすく育つ。本当の意味での詩人が生まれにくいのを嘆くのは筋違いだという気がする。。

 ちゃんと読んだわけではないから、漱石の創作ノートがいつごろからあんなきちっとしたものになったのかまでは知らない。が、たぶん、そういう創作ノートなしの、話がどうなっていくのか書いている本人にも手探りだった最後のものが『草枕』だったんじゃないだろうか。あの小説があの結末を目指して書かれたとはとても思えない。むしろ、なんとか終わりの恰好がついたという印象だ。以前「南画的」と評したのにはそういう意味もある。
 もひとつ例外があるなら、それが『こころ』だろう。
 『こころ』は逆に、ひとりの男を「倫理的理由」、それも、読者の誰もが首肯する理由で自死させる結末が先にあり、あとは逆算して、どうやったらその死が不自然にならないかに腐心した、そういう作品に思える。
 ところが、ひとりの人間を「妥当な倫理的理由」で死なせるためには、どうしても、もひとりの人間を死なせないと妥当性が出てこない。Kはあとから思いついたキャラクターだった。だから、Kには漱石自身が(作者の気づかぬうちに)相当に投影されているし、「わたし」よりも、よほど精気が感じられる。そんな気がする。
 しかし、それでも「倫理的理由」のみであるなら、「わたし」はわざわざ生きのびてお嬢さんと結婚する必要はなかったことになる。
 「乃木希典は、部下を死なせた責任をとったというより、時代に殉じたんだ。」
 Kはすでに、「わたし」よりずっと前に、自分がいまの時代には不要の人間なのだと気づいて死んだ。(思いつきで書くが、それを気づかせてくれた「わたし」には感謝の念さえ抱いていたかもしれない)そのことに気づいた「わたし」もまた、おなじことを考えた。あとは、きっかけだけが必要だった。そのきっかけが、明治天皇崩御乃木希典の殉死だった。
 いまは、そう考えている。

 たまたま、研究授業の反省会があっている準備室にはいりこんだ。知らなかったが『こころ』の研究授業だった。
 その反省会で語られていることの大半は技術的なことに思われた。
 自分自身は「今年の″こころ″のテーマは、サラっとやること」と、わざと公言している。あらすじプリントをつくるときも、最後の「Kが自殺」というところは、高校生にはそんな言葉は書かせないことにした。生徒が自分で読めばそれで授業は完結。あとは、その必要があるものだけが、自分で考えたり、ほかのものを読んだりすればいい。もし、「××の言いよったことはホントやろか」と、図書室で文庫本を借りるものがひとりでもいたら、大々成功だ。そう思って、たのしく、『こころ』をやっている。そして、それがけっこう授業になる。こんなことはもちろん初めてだ。
 研究授業のプランは、「そこまでやるか」と思うくらいに緻密。なるほど、小説とはこのように読むものなのか、、、。
 が、それにも疑問を感じる。(もちろんいまさら、そんなことは一言も口にしないけれど)もし、音楽の教師が「音楽とはこのように聴くものだ」「このように聴くべきです。」という授業をしたら、99%の生徒が音楽嫌いになるだけだろう。
 50年前の中学校の音楽の先生はときどき、たぶん家から持ってきたSPレコードをただ聴かせてくれた。眠りかぶってしまう生徒のほうが多かったかもしれないけど、その授業が楽しみだった中学生もいる。いまでも、もう名前を忘れたお爺ちゃん先生に感謝感謝。一度でいいから、そんな授業をしてみたい。

 どうでもいいことを付け加えます。
 『こころ』の授業をやっていると、「どうしてひらがなの題名にしたのか」という質問を受けることがある。あるいは、参考書や教授資料には、くわしくもっともらしいフカーい理由が書かれているかもしれない。
 しかし、こちらはごく単純に、次のように考えている。
 明治時代はやたらと整風運動が盛んで、漢字も漢音のみに統一しようという機運が強かった。それだけでなく、和語を嫌い、漢語や英語を使いたがった。憲法にせよ、法律にせよ、和語(漢字の訓読み)がどのくらい取り入れられているか、いまならコンピューターですぐ数値化できるだろう 。
 陸軍のなにかを読んでいたとき、命令書は漢文体でなくてはならなかったから、それを使いこなせる将校は優遇されたとあった。作戦企画能力ではなく、漢文力が要求されていたわけだ。命令書の冒頭の作戦目的はたいてい「××××んと欲す」だった。
 あの時代「心」という題名にしたら、知識人、いや識字階級はまず「しん」と読んだはずだ。おそらく漱石はそれを嫌ってひらがなにしたのです。



別件
 数日前の散歩中、70代半ばかと思われる自転車の人から声をかけられた。
──ビーグルの迷い犬を見かけんやったですか? もう目が見えんとに出ていってしもうとるとです。門が開いとった。
 見かけたら連絡しますと、家の場所と名前を聞いて別れたが、もうたぶんその犬が姿を見せることはあるまいと思われた。それに、その犬の運命について思いめぐらすことより、「あと10年したら、オレもあんな感じになるんだろうな。」という感慨のほうが先にたった。
 ピッピも10歳。すでに老境に入りつつある。若い頃は、相手をしてもらいたくなったら仕掛けてきた。こちらが怒ったふりをすると、「それっ」と逃げ出す。一周じゃたりなくてお父さんを追い越してまだ逃げるから、どっちが鬼か分からなくなる。追いかけるのをやめたら、家の角から顔だけ出してお父さんの様子を確かめている。また「コラッ」という振りをすると「それっ」。いまも時々仕掛けてくるが、もう10メートルほど逃げたら満足する。
 何年前になるか、散歩の途中でコンビニによると、
──可愛いですなあ。
 と声をかけてきた人がいる。
──ウチんとも見てやってください。
 トラックの運転席に行儀良く座っている犬がいた。
──こいつに元気をもらって働きよります。
 毎日、一日中お父さんと一緒の犬もしあわせだろうと思った。
 もう10年ではきかない、もっと前に、山中で炭焼きをして暮らしているお爺さんがテレビに出ていた。家族は二匹の犬だけ。
 朝、家から炭焼き小屋に出かけて、一日仕事をしている。その間、犬たちはちゃんと番兵。仕事を終えて家にもどって、炬燵でご飯を食べて、一緒に寝る。
 その満ち足りた生活を見ていて、桃源郷、ということばを思いだした。
 が、あのお爺さんも犬たちも、たぶんもうこの世にはおるまい。