月白の道

2012/11/03(土)

短信
 10月末の土曜日、黒崎に庄司さやかとジャンルカ・カシオーリのデュオを聴きにいった。
 庄司さやかのヴァイオリンを聴いているうちに、カザルスのチェロとの類似性に気づいた。カザルスのチェロは、言葉になる寸前の人間の声のように感じることがよくある。なにか言おうとしているように感じるんだけど、それが意味としては聞こえない。
──なんですか?どうしたんですか?
 が、対話には進まない。そういう「もどかしいわけではない、もどかしさ」がつきまとう。
 庄司さやかのヴァイオリンもそんな音になってきた。これはとんでもないことだ。
 帰りになにか買って帰ろうと、ホールの入口付近に行っても凄いひとだかりで近づけない。端っこだけが割りこめたので覗いてみると、カシオーリのCDのコーナー。そこで前から狙っていた「ベートーベン変奏曲集」を購った。
 その夜、ひさしぶりで飯塚に帰って泊まりこんだ。
 まずは、カシオーリのCD。
 これまで、ピアノはもう、グレン・グールドとタチアナ・ニコライエワだけで(自分の場合は)十分だと思っていた。そこへ30歳ほどの男が加わった。それも録音したのは10代のとき。天才というのは確かにいるのです。
 聴いているうちに自分の神経回路が変化しつつあるのを感じる。それが快い。「知性とはほんらいこういうものなんだな。」たぶん、100回聴いても飽きがこないだろう。
 へんな感想かもしれないが、あれは、スポーツ選手などのメンタルトレーニングにも使える。
 その後、熟睡。夜中にばっちり目が覚める。
 「今度帰ったときに確かめよう」と思っていたことがあったので、さっそく母親の本棚を開けてみると、思ったところに丸山豊『月白の道』が見つかった。まだ母親がはっきりしていたころ、「自分も読みたい」というので持ってきていた。(が、たぶん、母親は開いたかもしれないけれど読んではいない。そんな気がする。)
 確かめたかったことは単純で、少し前、ぐしゃぐしゃ書いて送ったとき、ミートキーナの守備隊長のことを書いたが、その御仁の名を「マルヤマ」と覚えていたのだが、著者と同じ名だと気づいて保留した。
 少し読むと名前が出てきた、やはり丸山だった。ただし、下の名はないし、その行状もいっさい書かれていない。なにか別のもので読んだことが自分のなかでごちゃごちゃになっているんだろう。
 が、読みはじめるととまらなくなり、けっきょく、も一度読んだ。それくらい新鮮だった。
 何年かまえ、須恵高校の応援歌を作詞した国語教師と飲んでいるとき、「丸山豊の詩をどう思いますか?」と突然訊かれた。「ごめん。オレにとって丸山豊は『月白の道』の著者なっちゃん。」が、いつか、その詩もちゃんと読む。
 本に興味のわいた人は、アマゾンかなにかで現物を手にいれるか、こちらに連絡してくれれば送ります。読んでほしい気持ちは満々。出版社は地元の創言社
 で、そのほんの一部だけ。それも、いわば本文から離れた部分だけを以下に紹介します。
 序文から
「戰争については、書けぬことと書かぬこととがある。書けぬこととは戦場にてじぶんの守備範囲を超えた問題であり、同時にじぶんの執筆能力の限界である。書かぬこととは倫理的な判断による。それをどこまでも追いつめるのが勇気であるか、化石になるまで忍耐するのが勇気であるか、私には簡単に答えることができない。」
 その間の事情を著者は、本文のなかで少しずつ洩らしているのだが、安西均は端的にそれを「戰争追憶の酔いをおさえながら、醒めつづけ痛みつづけること」と評している。「これこそが、人間の尊厳をまもるために最も必要な勇気といえるだろう。戦記というものの正しい読まれ方は、そのような語り手の勇気の火種を、私たち聞き手が素手で貰い受けつぐことだと思う。」
 著者自身は次のように書く。
「私がここで言おうとしているのは、どの政治的な考え方が正しいとか正しくないとかいう大それたことではなく、それ以前の、人間がそこで産ぶ声をあげるもの、桃色のヘソノオのようなもの、そのかなしさなつかしさのなかで、つねにはっきり目ざめつづけたいという願いである。」
 ビルマでの戦いがはじまる前の部分では、著者は次のように書く。
「日がかたむいて、ツルの家族が鳴きながら羽をやすめに降りてゆくころ、あの山ひだのあちこちから、うすむらさきの細いけむりがたちのぼるのである。そのなかには、原隊と20キロちかくもはなれて、わずか数名で警戒をつづけている分哨の、孤独をかみしめているけむりもあろう。また、わたしたちのうごきをうかがっている敵軍の合図のノロシもあろう。そのいくばくをのぞけば、あのけむりこそ、地のはての雲南で生まれ、ここで土に帰してゆくものの生活のしるしである。ねじれゆく血の歴史に、まさにみじめにほろびるかと見えて。ついにはほろびない人間の生きぬく意志の美しさである。かれがこの草ぶかい山おくに住み、無名の民の精神で、なにをゆたかに許し、なにをはげしく否定しようとするのか、私には少しずつ解けてくるような気がした。」
 その土地で知った隠士と、実際に出会った隠士について、次のように書く。
「おのれが無に帰するまで、その知性と徳性のすべてを郷土にほどこしてしまう例は、日本でもけっして少なくはない。これは、ストイシズムをもつ人間の、幸福な生き方のひとつの型である。その生き方には危険もある。″清い官吏のかたくなさは、きたない官吏の醜さよりも悪い″という言葉があるが、徳と美についてのじぶんの解釈のせまさは、官吏ならずともある種の毒を噴きやすい。」
「自然に即した悠々とした人生はうらやましい。もはや今日の私たちには、望むこともできぬ超俗の境涯であるが、社会につながらぬ自己をたのしむのは、わがままというより他はない。幸福をむさぼる卑怯者である。」
 いくら抜き出しても、ひたすら、「読んでください」というだけのことにしかならないから、あと、ひとつふたつだけにする。
「私たちはじぶんの声の質にふさわしく発言すればよいし、じぶんの脚力に応じてあるいてゆけばよい。じぶんの視力が、ひとよりもすぐれたものであるなどと、思いあがらぬがよい。世の中をシニカルにながめる前に、まっすぐに見ることをおぼえよう。反俗のために反俗になったり、変形のために変形したりするのを避けよう。否定のつよさよりももっとつよい視力で、真正面から世の中を見つめているうちに、おもむろに生の奥義が透けてくるのを信じたい。」
 ミートキーナ死守の命令を受けたあとのことを次のように説明している。これで最後にしよう。あとは、かれの句をひとつ引用するだけ。
「そのときの私の、いつわりなき心情がどうであったかということは、私の生の終局と最初がぱったりひとつになった重要な体験として、その後の私の人生の、思考や行動のゆるしがたい根となるようである。率直にいって、私の心を占めたのは、りくつっぽい思考よりも、重いとかかるいとか、あさいとか深いとか、ねばっこいとかさらりとしているとか、そんな物理的な言葉がはじめて表現できるものであった。自由はいいなあ、身がるでいいなあ、生きるということはいいなあ、あかるくていいなあ、と思った。」
 昭和62年、再版時のあとがきから
「私には戦後つねづね、ひじょうに慎重にあつかっている言葉が三つあります。英霊と玉砕と平和です。英霊と玉砕については、その言葉の苦さ硬さをかみしめて、胸のなかで言葉にかなう精神的なたかまりが判ったときだけ使用することにしています。平和については、今日の今日までほとんど唇にのせたことがありません。かるがるしい平和甘受をみずからいましめるためです。」
 まだ穏やかだったころ、雲南でキジ撃ちをした帰り道の句
   日は沈むすでに冷えたる雉の胸
 丸山豊1917年(大正6年)生まれ、1989年(平成元年)死亡。
 その直前のインタビュー番組を見終わったとき、配偶者の言ったひと言を忘れない。「このひと、もうすぐ死ぬとやね。」