南原繁『形相』補遺


三谷隆正君を憶ふ

  
   一
 

如月(きさらぎ)の十七日の日のゆふべ君が五十五年のいのち畢(をは)りぬ


うつそみのかなしいのちをたくましき力つくして生きし君はや


あり経つつ君清らかにありしかばきよらかなる死(しに)を遂げ給ひぬ


ひさかたの雲ゐにひびき白き鶴(たづ)の天翔(あまか)けるごと逝きし君はや


いつまでも老ゆるなかりし清らなる君が瞳のそのかがやきを


フリジアの花をかなしみし君がまへに手向(たむ)くる白きフリジアの花


若きより病を超えて來しゆゑにまた癒ゆるべき君と思ひし


いのちせまりし君が枕に面(おも)よせて声?みゐたるときいをしぞ思ふ

既にしてこときれにしと須臾(すゆ)われに何か憤ろしきもの湧きたり


みいのちの終りし君がかたはらに吾は声あげ哭(な)きにけるかも


三十七年渝(かは)らぬ君がまごころにおもひ到りて今宵ぞ悔し


たとひ何すとなくもこれの世に君いますのみに心足りにき


丹後なる三谷の家の清き誇りと敬(ゐやま)ひし君ゆきて還らず


   二


寒きゆふべ吾を送りて玄関に別れし君よ永久(とは)におもはむ


南(みんなみ)の温泉(いでゆ)の国を恋ひにつつ君は疎開を遂げず終りし


君つひに病に臥しし日の前にミルトンの詩集妻と読ましぬ


いとまあれば炬燵に持ちて読ましけるドストエフスキーの書君は愛(かな)しむ


ただならぬ帝都爆撃のあらむ日のまへを静かに過ぎしいのちか


亡き友のいのちつくして書きにける幸福論を校正す吾は


いのちそそぎ書きのこしたる君が書(ふみ)読みつつわれの心清まる


君が書読みつつをればわれの世に生きておそれのなしとしぞ思ふ


亡き友の墨くろぐろと書きたまひける手紙の文字目に沁みて痛し


夜(よは)ふけて過ぎにし友を思ほへば心さえぬる吾はさびしゑ


君逝きて砧(きぬた)の村にのこる友今宵たづねて心なぐさむ


ま澄める空の深きを見放(さ)けつついつまでかあらむわが後(のち)の日の


春早き暁闇(あかときやみ)に目さめゐて君をおもふはさびしきろかも


   三


白線二条の帽子かかぶり気負へりしころを思へばはるかなるかも


丹後なる与謝の郡に夏は君かへりてをりて便りくれにき


岡山に君があり経し十年(じふねん)の若きいにちを吾はおもはむ


妻と児のみ骨をいだき見にしめて君が嘆きの凝りて成れる歌


牛込の君が新居(にひゐ)に招かれて語りしこともおぼろなるはや


村山に池をめぐりつつひと日君われを誘ひて遊びたりにき


二人なき友とし睦び恋ひけらし弟君仏蘭西大使三谷隆信


新しく妻をむかへて君が家にほのかにあかるきものを加へぬ


いまはの夫がみとりのためにかも君が若き妻の嫁ぎて來にし


うつくしき聖き夫婦(めをと)と年ながく君を幸(さきは)ひ乞ひ祈(の)みたりし


つつましく君が若き妻ののこりゐていとなむ見ればかなしきろかも


妻を率(ゐ)て秋のひと日を清(すが)しとぞそぞろ來ましし君のおもほゆ


夫(つま)逝きてさびしくこもる家ぬちに唯ひとりなる飯(いひ)を食(を)すらむ


あたたかく庭の芝生に陽は照れど下り立ちて來む君はあらなく


この年頃書読ますとき眼鏡かけし君がおもかげの親しきろかも


白き帽子かぶりみ庭に下り立ちて小草取らしき暖かき日は


長崎のカステイラ惜しみし君にわれ終に得ざりきいまの代(よ)なれば


わが娘ふたりのためにうまし婿選みて君はたぐへしめにき


君たぐへしめしわが娘(こ)夫婦(めをと)の牡丹江に落ちつくを見て死(しに)に給へり


はろばろと満州の吾娘(あこ)賜はりし文かなしも君が絶筆


絞り成す錦紗の帯よわが友のきよき形見と愛(を)しみつつ巻かむ


   四


名もいのちも欲(ほ)りせずただに学び修めたる君を聖者(ひじり)と人いふらむか


書(ふみ)ひとつ乱れてあらぬ君が書斎ここに籠りて学びいましき


君が著はししもろもろの書(ふみ)手にとりて吾がおもふ生きにけるかも


この書のひとつだに書かむためにのみ生きたりといふも悔はあらめやも


君が書読みつつゆけば亢(たか)ぶれる心うれしくなりてくるかも


わが書の世に出でしときに筆とらし君高らかに為に論じき


みいのちのなほも豊かに生きまさば君が書きけむ学問論天国論おもほゆ


君ありて言挙げにける「個性主義」の語?々(しばしば)われの拠りて用ふる


新(あらた)しく君が造語しけむ人間の「相生関係」といふに沁み來たるもの


学者君が一生(ひとよ)の業(げふ)やもろつ人の心に染みて永久(とは)にのこらむ


君の見ぬものに文楽人形浄瑠璃のありて勧めしことも思ほゆ


五十五年君が歩みしこの道やおのづからにして到り給ひき


対(むか)ひゐて相語りつつ吾さへに清まるる思ひす君がごとくに


きよらかに純(もはら)なる君の在るところ青年ら常に其処に集ひき


師を友をしのぶ集ひに君起ちていのちかがやきいへり幾たび


日の本の大き平和(たひらぎ)に入らむ日を恋ひつつ君の逝かしたるはや


   五


ただならぬいまの時代(ときよ)を病む君にきびしかりにし冬過ぎなむとす


一冬をただに籠りてゐたる吾の君を嘆かむと生きにけらしも


春の雪斑(はだら)にふれば君が家は寒くしあらむと思ひつつゐたり


ほのぼのと雪解(ゆきげ)の水のかぎろへば既に清(すが)しき君としぞ思ふ


にはかにも君死にしゆゑ怠りて吾のあらむも許し給はな


庭隈(にわくま)の落葉のなかに蕗の薹萠ゆべくなりてわれ力なし


にはかにも君死にまして何せむや寂しく吾の老いつつぞ居り


明暮をわれ無為にしてあり経つつ何か待つもののあるものの如くに


浄水路の土手にそひつつわがゆけば幽(かそ)けく水の流るる音すも


そひてゆく土手にのぼりて直(ひた)流るるさびしき水を吾は見にけり


春寒き松の林に入りゆきて松吹く風の音をこそ聞け


つらなめてみ池の水にあそぶ鵜ら生(しやう)あるものはまうらがなしも


あはあはと雪ふりたればかなしびて心こだはりし吾和(なご)ましむ


やはらかに降りたる雪に春とおもふ光しみ照る眼にいたきまで


淡々(あはあは)と降りたる雪に日の光あまねくし照ればしみてとけゆく


春彼岸雨は降りゐてひとところ明りせる空恋(こほ)しみにつつ


三月(さんぐわつ)の曇のふるふ下にして水仙の芽ののびむとすらし


うららかに明けたる今日の昼たけてたちまち降り來(き)そそぐ春雨


三月(さんぐわつ)の終りとなりてけさの霜白くふれれば吾の身にしむ


武蔵野のかぐろき土に麥(むぎ)の逭のびゆく春にあへらく思ほゆ


かぎろひの春さりぬれば新(あらた)しくよみがへり來むいのちとぞ思ふ


天(あめ)なるや夜空を遠く星群れて光りつつ見ゆ今宵ぞ恋(こほ)し