漱石の『老子の哲学』
2012/11/18
漱石『老子の哲学』
前から気になっていた漱石の『老子の哲学』を読んだ(?)。
(?)がつくのは、実は中身の何分の一かは漢文の引用で、ほとんど「ながめた」というほうが適当なくらいだから。なのに報告をしようと思ったのは、その内容が「アレっ」と感じるものだったから。なにしろ、のっけから「老子は退歩主義なり。」とあるのだから気合いが入っている。。明治25年大学2年生のときの論文だそうです。
さらに、次のようにつづく。
「今この相対世界に生まれて絶対を説くを得るは、智の作用推理の能にて想像の弁なり。議論上これありと主張するも、実際その世界に飛びこむ能わず。老子のこれを知らずしてみだりに絶対を説きしは、前にも云えるごとく、外界の刺激にもとづきしゆえにて、隻眼をもって相対の一方のみを見たる結果と云わざるべからず。」
「道というものがもし「玄」以外に存し、しかも天地の始めより在りとすれば、老子の哲学は二元論なり。もし「玄」と同一なるか、あるいは「玄」の一部なるときは一元論なり。」
なんという理屈っぽさ。ほとんど爽快なくらいだ。老子を論難しているというより痛論している。
そして、こうまとめている。
「老子、道の体にのっとるか、真に無為ならざるべからず。その能わざるは、前に述べたり。
老子、はた、道の用にのらんとするか、すなわち有為ならざるべからず。相対を棄却する能わず。善悪を抹殺するあたわず。美醜を混合するあたわず。
すでに道の体にのっとるあたわず、用にのっとって相対を棄てんとす。これ、老子の避くべからざる矛盾なり。」
人間を理系・文系に分けるて見るのは、血液型分類とさして変わらない気はするが、漱石が理系的なひとだったのは間違いあるまい。あの緻密な創作の仕方に、吉田健一が首をかしげるのも分かる。──吉田健一の小説にいたっては、話の筋書きさえ前もって用意されていたとは思えない。本人自身がどんな結末になるのか愉しんでいた気配がある。──
鴎外もそうだが、そういうとびっきりの理系的頭脳が小説を書いた。それが明治という儒教道徳がしっかりと生きていた文明開化の時代の面白さだと思う。
が、漱石が儒教のひとだとは見えない。
文明開化の時代がこれを書かせたのか。漱石の、ものごとをアイマイにしておけない性格がこれを書かせたのか。
列車のなかで、ぼうっとして考えたのは、この論文は、漱石のなかにある老子的なものが発火して書かせたのではないか。ということだった。
のちに漱石は、小説という徹底して相対的なものを創作した。そして、その相対ぶりは『明暗』にいたってなお明確になった。その明確さは漱石自身をして「気が狂いそうだ」と思わせるほどだった。が、その一方で、いやそうだからこそ漱石は、絶対的なものの存在に依存せざるを得なくなっていたのではないか。その絶対的なものとは「道」ではなく、言語表現さえこばむ「玄」だったのだろう。
読書感想文になっているのかな?
別件
夕方の散歩中、防波堤の下で浮いている石に足をとられてひっくり返ってしまった。最近、子どもたちが面白がって石を動かしているので危なくってしかたがない。──わあっ。
ひっくり返っなまま、どこか傷めたとこのがないかを確認していたら、ピッピが寄ってきて、黙ってほっぺたをなめる。
──だいじょうぶ?
──うん。ありがとね。
ピッピはほっとしてように、また自分が気になっている場所の匂いを嗅ぎにいった。
リィもそんな犬だった。
主婦がイヌ党に宗旨替えしたのは、田んぼの中の一本道をつなをはずして散歩させているときに転んでしまったら、先を行っていたリィが慌ててもどって来た時だった。
──うれしかったねぇ。
その性格を利用して、よくカクレンボをやった。リィがよそ見をしているときに、ふっと身を隠す。そうすると慌てて探しにくる。
──見つかったあ。
ガロのほうは、これ幸いに、なにか食べられるものが落ちていないか、匂いを嗅いで回っている。おなじ自分の子なのに、性格がどうしてこんなに違うのだろう?
おふくろが言ってたな。
──みんなアタシから出てきたとに、三人ともなんでこげん違うとやろか。
着るものを買いに連れていくと、姉は気に入ったのを2〜3枚もってきて「どれがいちばん似合う?」と批評を求めたそうだ。長男坊はすぐに「これっ!!」と決める。それはまだ似合わない、というと「そんならいらん。」とさっさとかえりはじめる。(この話を主婦にすると、「今もまるっきり変わらん」と言う。)弟は、店に入っても、「どれがいいと?どれがいいと?」と言うだけで、自分で選ぼうとしない。
三者三様を明解に説明する母親は、けっこう頭がよかったんだろうと思う。
散歩の帰り、まったくの偶然なんだが、孫のサッカーの相手をしていたお爺ちゃんが転んだ。
──わああ。いかん。こりゃいかん。
べつだん怪我をしたわけではなさそうだったが、戦意喪失。それを見ている孫のほうは、「だいじょうぶ?」も何もなしに、ただ傍観している。
──ね。ピッピのほうがえらいね。