はい、じゃぁまたね。
2012/11/23
寸感
漱石の『老子の哲学』を読んだあと、なにやら考えている。
布団にはいったら頭が動き出す。動き出したとき浮かんでくるのは、どういうわけか三好達治の『乳母車』
母よ──
淡くかなしきもののふるなり
紫陽花いろのもののふるなり
はてしなき並樹のかげを
そうそうと風のふくなり
ときはたそがれ
母よ わたしの乳母車をおせ
泣きぬれる夕陽にむかって
りんりんとわたしの乳母車をおせ
赤き総のついたビロウドの帽子を
つめたき額にかむらせよ
たびいそぐ鳥の列にも
季節は空をわたるなり
・・・・
主観の裏打ちのない客観は傍観にすぎない。客観の裏打ちのない主観は思いこみにすぎない。
若い漱石の言う一元論と二元論にも同じようなことが言える。
一元論を背後にもたない二元論はただの言葉遊びだ。二元論をはらんでいない一元論は論でさえない。
そのうえでどう考えるのか? 漱石がその答えを見つけた気配はない。
なぜか?
たぶん頭がよすぎたんだ。
頭のよすぎる人は「もやーっ」を嫌がる。「バクゼン」をバカにする。「なんとなく」が許せない。
頭のわるい国語教師はその「モヤーっ」に賭ける、「バクゼン」をなにより大切だと思う。「なんとなく」以上のものがあるかと思う。
今日はいまから母親の車椅子を押しにいってきます。
いまの母親をしあわせだなどとは思わない。ふしあわせだなどとも思わない。その息子についても同じく。
別件
朝の散歩と小学校の登校時間が重なった。低学年の女の子たちがチビたちを取り囲む。
――かわいい。
そうなると、義務としてピッピは道路に横たわる。女の子たちは喜んでなでる。
そうこうしている内に、ピッピが綱をくわえてこっちを見ているのに気づいた。
「もう帰ろう?」
──はい、じゃぁまたね。遅刻するよ。