夏目漱石『こころ』

試験にはあまり役立たない補助プリントⅢ

夏目漱石『こころ』への感想と意見
・単純で簡単な話なのに、なぜこんなむずかしいことになるのだろう。a k
・『こころ』には生々しいほどに分かりやすくて引き込まれる表現がたくさんあった。z
・『こころ』を読んでいて、こんなに話や言葉ひとつひとつに意味があるのだなあと思った。o
・暗い話だ。t 昼ドラマのようにドロドロしている。y
・こんな暗い話を書いた夏目漱石も暗い心のもちぬしだったのだと思う。n
・この小説には、人の心のどろどろした部分が書いてあって、悲しい。b
夏目漱石にもこんなつらい過去があったのかな。w
・たった五人の登場人物しかいないのに、こんなに細かくて、人を様々な気持ちにさせるなんてsy
・人間と人間のつき合い方は難しいな。g
・わたしには「私」が哀れにおもえる。ky
・正直に自分の思いをつげた「私」には、ちゃんとしあわせになってほしかった。a
・お嬢さんはかわいそうな人だ。自分を好きになってくれた人も自分自身も不幸になったのだから。t
・お嬢さんは、ほんとうは、Kと「私」のどちらのほうが好きだったのか、ほんとうの気持ちを知りたい。cy
・すべてはお嬢さんが原因だ。zmd
・女のひとはずるいし、考えがすごいと思います。w
・Kも「私」もほんとうの気持ちを言い合わなかったのが不幸の原因ではないだろうか。ng
・Kが死んだあと、「私」とお嬢さんは結婚しないほうがよかったと思う。m
・もしこの話がハッピーエンドだったら今ほど有名にはならなかったかもしれない。ハッピーエンドじゃないほうが、読者になにかを考えさせるから。m
・もし、お嬢さんと「私」が話す場面があったら、話の展開が変わっていたかもしれない。j
・必死の思いで親友に相談したのに・・・こんなすれ違いが起こるなんて。k
・「私」はKにお嬢さんを諦める「覚悟」を強いただけなのに、Kは別の「覚悟」を決めてしまった。y
・この『こころ』を読んで、「残酷だなあ」と思いました。r
・先生とKは、どっちも悪い。s 
・だれも悪くない。h
・先生は弱くて、ずるい。d
・もし私が「私」の立場だったら、「私」と同じことをした。d
・「私」のKに対するずるい考え方とかには少し親近感がわいた。y
・「私」はKよりも誰よりもずっと人間的だった。だから必要以上に悩み考えたり、卑怯なことや相手を傷つけるようなことをしたのだ。um
・人間は誰しも、人の弱みにつけこむところがあるんです。h
・好きな人ができると、その人しか見えなくなったり、周りのことを考えなくなるものです。m
・先生は、自分をけなしているように見えて、けっきょくは先生のいいように世界は回っている。m
・「私」の複雑な心情や心の動きを比喩やいろんな表現方法をつかって描写しているのがすごい。t
・「私」は、漱石が、人間というものをそのまま表現しようとしたキャラクターであったと思う。n
・Kと「私」の悩みの種は同じでも、まったく違う想いで悩んでいる様子が書かれていた。m
・私にはKが、先生やお嬢さんとの関係だけで死を選ぶような人物には思えない。j
・Kは、二人にわからないような死に方を選ぶべきだった。残された二人が不幸になったのはKのせいだ。m
・ Kは自分で自分を束縛しすぎなんじゃなかったのでしょうか。o
・Kはとてもいいやつだと思う。y 
・Kは素直すぎた。s
・Kも「私」もあまりにもいろいろなことを考えすぎです。l        
・Kと「私」は互いのことを思っているが、反面自分のことしか考えていない。皆、そのような関係だが。t
・この物語に悪人はひとりも登場しない。でも人の心にはかならず悪いところがある。そういう人の心の弱さがつまった作品だった。fd
・Kがお嬢さんへの想いを打ち明けたとき、すぐに「私」も打ち明ければよかったのに。dr
・もしKが、「私」のしたことを先にしていたら、どうなっていたんだろう。a
・Kのほうが「私」よりよっぽど卑怯だ。i
・Kは精神的に子どもすぎる。e
・Kは淋しくて、小さな人間だった。b
・Kも「私」もふたりとも自分の思いに正直に生きた結果があのような話になったのだと思う。j
・現在問題になっているいじめ問題の関係で考えると、「私」はいじめる側、Kはいじめられる側、そしてお嬢さんと奥さんはそのいじめを煽る側になる。b
・人を愛するということは、とてもとても大変なことだ。そこから起こる争いや憎しみが恐ろしい。f
・人間は嫉妬深いな。hf
・人間はいったん自分を見失うと残酷な運命をたどってしまうのだろう。d
・時代背景を考えたら、Kには最初から勝ち目はなかった。m
・女性の気持ちは書かないのが夏目漱石なんだな。そのぶん自分でたくさんの「お嬢さんの気持ち」を考えることができました。q
・昔の恋愛も今の恋愛と変わらないんだなあ。n
・人の目は前についているんだ。うしろばかり見るな。l
・人生でいろいろな経験をつんで大切な人に出会えたらいいな。t
夏目漱石の小説はほかのひとのとはどこかが違う。変わり者の作品のような印象がある。k
・Kは仕方ないとしても「私」まで、、、。s
・三人ともそれぞれにかわいそうだと思った。l
・「人間の裏側」を意識させられた作品だった。z
・「策略では勝っても人間としては負けた」という言葉がとても印象的だった。k
・大切な人を三人も失ったお嬢さんは、そのあとどんな生活をおくったのか。ms
・0点でも、ぼくは大丈夫です。h

・『出発は夜中』
 私は、Kの遺書の「薄志弱行で、、、」「もっと早く死ぬべき、、、」という内容が本心だと仮定すると、先生とKが上野から帰ったあと、Kが夜中に先生に「起きているか。」と聞くまえに、Kは自殺を決意していたということになると思います。
 いままで、Kの理想は、思考停止ナビゲーションとして、Kを推し進めてきました。理想がすべての判断の手本、犠牲になったものへのいいわけとなっていたのですね。それで今回、恋をして、先生と話をして、思考停止していられたKの目前に用途自由なハンマーがはえてきました。ハンマーはKに思考をうながします。カーナビ・エンジンをこれで壊してしまう、恋の道路に穴を開ける。自分の頭に向けて振ってみる。
 薄志弱行。自分はいま理想とはほど遠い。覚悟はあるが過去もある。
 夜中、Kはハンマーでたくさんのものを壊しました。エンジンと頭をのこして。
 先生の思考はいつも被害に関連しています。ドライバーは、かもしれない運転のエキスパートです。かもしれない先生の主導の歩みはほぼありません。アクセルは時間のさし迫りによって、やっとあわてて踏まれます。
 Kは、先生がかもしれないをしている間に、頭へハンマーを振る準備をはじめ、奥さんから壊したものの話を聞き、もっとも深く落ち着いた驚きを示し、遺書の最後を書き、準備を終えて、ハンマーを振りました。
 ここまで書いてきても、夏目漱石の手の中で小躍りをしていただけのような気しかしないのは、とてもつらいです。

  国語教師の感想。
 この小説は、高校生には深刻すぎる面があるので、できるだけあっさりと授業をやろうと決めていました。が君たちの多くは、授業以上に正面から受けとめた。その教師の姿勢と君たちの態度は、どちらも正しかったと思います。
 代表的な感想である『出発は夜中』については、国語教師とは若干の見解の相違があるが、それはたいした問題ではない。自分の言葉で考え、自分なりにそれを表現している点を高く評価したい。
 相違点について。
 Kの「もっと早く・・べきだった」という最後の述懐は、痛切な後悔の念だったようにみえる。つまり、Kの言う「もっと早く」とは、お嬢さんに会うより前のことをさしているのではないか、というのが国語教師の考えです。
でもKは、お嬢さんに会えてよかった。そう思います。


『こころ』について

1、Kが「私」から、「精神的に向上心のないものはばかだ」と、もともと自分が「私」に言った言葉をそのまま投げつけられて、「ばかだ。」「僕はばかだ。」と自ら言った理由。
●Kは養家から離縁されてまで、高収入と高い社会的地位を期待できる医者の道を捨てて、自分の望み通りに精進の道を選んだ。
○その精進の道では、Kは肉体的な禁欲の実践のみならず、精神的な禁欲も自分に課してきた。 
●Kはすべてを犠牲にして道を求めつづける自分の生き方に誇りをもち、普通の生き方をしている「私」を見下ろしてさえいた。
○そのKが「お嬢さん」に恋をしてしまった。
●道を求めるKの生き方が純粋であればあるほど、わずかな曇りがいっさいの価値を台なしにしてしまう。
○Kは養家から離縁され、実家から勘当されて独力で生きてきたが、健康を害し、精神的にも疲れ、「私」の援助を受け入れた。
●かたくなに孤独を守って生きてきたKは、「私」のおかげで、わずかに精神的余裕が生まれた。
○その心の隙間に「お嬢さん」が入ってきて、これまでの自分の生き方が台なしになるとは予想もしていなかった。
●「私」の援助を受け入れることが、自分の孤高さを失わせることになる、ということを予想しもしなかった自分の愚かさ。
○他人の温かみを知ることが、他人の温かみをを求める心を芽生えさせるという、凡人なら誰でも知っている道理さえ知らなかった自分の迂闊(うかつ)さ。
●「自分」の生き方にしか関心がなかった己には、「他人」のことで悩む資格などないということを思い知らされた無念さ。
○すべてを犠牲にして最も価値あるものだけを求めつづけた自分の人生が、ほんの小さな心のゆるみから怒った、ほんの些細(ささい)な出来事(Kの理想からすれば、女性に恋をすることは些細なことにすぎなかった)のために瓦解(がかい)してしまうというあっけない結果を迎えたことへの失望。
●純粋さというものは、いったん、ほんのわずかでも失われたら、もはや取り返しがつかない。
○すでに自分で自分の理想をけがし、自分で自分の人生を台なしにした男が、本来的な価値がないと思っている「ただ生活してゆく」ことのためにのみ生きていることへの自己嫌悪。
 それらを含めて
 「僕はバカだ」と言ったのではないか。

2、「狼がすきを見て羊の咽喉笛に食らいつくように」Kに「お嬢さん」への恋を断念させようとした「私」が、話を切り上げて無言で下宿へ歩いていく間に感じた、「寒さが背中にかじりついたような心持ち」について
○私は両親の死後、叔父に裏切られて厭世的(えんせいてき)になっていた。
●下宿の「奥さん」と「お嬢さん」が家族同様に世話をしてくれたお陰で「私」の心はほぐれ、次第に「お嬢さん」に心が傾いていった。
○強固な意志で、己の望み通りの生き方をしようとして経済的に困窮し、健康を害し、精神的にも弱っているKに同情して同じ下宿にひきとった。
●Kの下宿代を負担するとともに、「奥さん」と「お嬢さん」に、Kのかたくないなっている心をほぐしてくれるように依頼した「私」の考えは成功する。
○「私」は、自分が救われたのと同様の環境、同様の過程を自分からKに提供していながら、Kがお嬢さんを好きになるという、同様の結果をもたらすことまでは予想していなかった。
●「私」は、道を求めるKに敬意を抱いているからこそ自腹を切ってまで援助する気になったが、Kが現実離れした男である分だけ、実際面では自分のほうが長(た)けているという、Kに対する余裕があった。Kの援助者であるといううぬぼれもあったかもしれない。
○同時に、実生活を犠牲にしてまで道に精進しようとするKへの畏敬(いけい)の念もまた持っていた。
●明治時代の若者にとって、「純粋さ」や「精進」や「道」には、現代のわれわれの想像を超えた犯すべからざる価値があったのではないか。
○「私」は孤独であった。「私」はKの援助者となることで、自分の寂しさをやわらげることができた。
●「私」は恋をした。その恋の相手のお嬢さんは、「私」よりもKに同情心を持ちはじめているようだった。
○明治時代の学生にとって、より価値のあるものを保持していたのはKであった。お嬢さんが、普通の「私」より気高いKに心を寄せるのは当然のことのように「私」には思えた。
●お嬢さんをKに奪われるかもしれない、と感じたとき、突然、お嬢うさんの価値は、何ものにも代え難い貴重なものになった。
○「何ものにも代え難い」の「何もの」の中には、″友情″や″誠実さ″や″同情心″といった心の純粋さだけではなく、あとになって考えてみれば、生きていくうえで不可欠なはずの″プライド″や″自分を愛する心″も含まれてしまっていた。
●「私」は一切をかなぐり捨てて、ただお嬢さんを自分のものにするためにのみ、Kに立ち向かった。
○Kは「私」への警戒心なぞ微塵(みじん)もなく、純粋な子羊(キリスト教において子羊は、神への犠牲ともなる、神からもっとも愛される無力な人間、を表している)のような心のままで「私」の話を聞いていた。
●Kという唯一の友人を自分の欲望のために傷つけ、その希望を捨てさせるために必死で襲いかかった「私」に対してKはまったく無防備だった。Kにとって「私」の考えや行動は、自分とは別次元のことだったからである。
○「私」は、みずからKとの友情を断ち切り、もとの、叔父から裏切られたときの「人間が信じられない」孤独な存在にもどった。
●しかも今回は、その「信じられない人間」のなかに、自分自身をも含めてしまう行為を自分からおこなったのだ。
○「私」は孤独だった。しかし、その孤独さは、Kのような気高い孤独さではなく、ただひたすらひとりぼっちなだけの卑小は孤独さなのだ。
●「私」は、みずから自分を愛する心(自尊心)を捨てたことにより、耐えがたい自己嫌悪・自己不信だけが残った。
○この「卑小な孤独」や「自己嫌悪」や「自己不信」に陥っている心情を、「寒さが背中にかじりついたような」とたとえている。

3、「私」の未來を貫いて一瞬間に「私の前に横たわる全生涯をものすごく照らした」「もう取り返しがつかないという黒い光」について
○「私」は、「いま言わないと取り返しがつかなくなる」と思いこみ、Kを出し抜いてお嬢さんを勝ちとった。それがどれほど卑劣な手段であったかは、「策略では勝ったが、人間としては負けた」という「私」自身の思いが表している。
●私は、卑劣な手段をもちいてKを裏切っただけでなく、その後も「私」に対して誠実でありつづけたKに、(すでに、お嬢さんのことについては結論が出ているにもかかわらず、しかも、「本人が不承知のところへ私があのこをやるはずがありません。」という奥さんの言葉から、「お嬢さんの気持ちがKのほうに傾いている」というのは、恋で目がくらんでいる「私」の思い過ごしにすぎなかったということが明らかになっているにもかかわらず)謝ることができなかった。
○Kの死によって「私」は、Kに謝罪する機会を永久に失ってしまった。
●Kに謝罪することは、人間として当然しなければならない「自然」なことだった。
○「私」は人間としての「自然」さを取り戻す機会を永久に失うことになった。
●「私」は、これからの人生を、「自尊心」という自然な心を持ちえぬままに、自己嫌悪の念を忘れる権利を持たぬままに、しかも、「私」がそうなるきっっかけになった人物。つまり、お嬢さん、とともに生きてゆくしかなかった。
○「私」の人生は、Kの死によって、まったく発展性をうしなってしまったことになる。

4、「私」はお嬢さんとの婚約を解消して、新たに生きなおすことはできなかったのか?
○お嬢さんを捨てることは、そのことのために死んだ(と思いこんでいる「私」にとって)Kを二重に裏切ることにしかならなかった。
●Kを裏切り、さらに何も知らない無垢(むく)なお嬢さんまでも裏切ることはできなかった。「私」は、自分の良心を信じられなくなっただけで、良心的な人間でなくなったわけではないのである。

5、Kはなぜ自殺したのだろうか?
●Kの自殺の直接の原因は、自分への絶望のためであり、「私」や「お嬢さん」のせいではない。
○Kは、お嬢さんに恋をしてしまったことに悩んでいたのであり、お嬢さんをとるか道をとるかで悩んでいたのではない。「私」が言った通り、Kにはもう別の選択肢はなかったのだ。その意味では、「私」がKを裏切ったあとでも良心的であったように、Kはお嬢さんに恋したあとでも禁欲的でしかなかった。
●「私」がKを出し抜いてお嬢さんと婚約していたのを知ったことが、Kの自殺の動機にはなった。しかし、それを知ったときのKはむしろ、ほっとしたのではなかろうか?
○Kが「私」やお嬢さんと出会い、いっしょに暮らすことがなければ、違った生き方をしたのは当然だろうが、それでも自殺なり、自殺に等しい死に方や生き方をしなかったとは言い切れない。そう考えたとき、Kにとってお嬢さんとの出会いは、なんにも実を結びはしなかったけれど、かれの青春や人生にとっての可憐(かれん)で貴重な一輪の花だったと言える。
●Kは「私」の裏切りを知るまで、「私」もまた、Kとは次元こそ異なれ、自分の存在を賭けて生きているとは思いもしなかった。Kがそれほど他人への関心が乏しく、自分のことばかりに集中して生きていたのだ。
○Kは、お嬢さんに恋しているときでも、お嬢さんが自分のことをどう思っているかということなど、考えてみもしなかっただろう。
●Kは、精進の道をけがした自分をみずから断罪したのかもしれないが、ただ単に、自分が不要の存在であると知り、いわば身をしりぞくように、(社会や人生に対して退会届や引退届を出すようにして)死を選んだのかもしれない。──少なくとも、のちに「私」はそのように考えた。そしてKが引退届けを提出した先は「時代」だったのだと気づいた。「文明開化」「殖産興業」「富国強兵」「日進月歩」の時代への引退届。
 そして「私」もKと同じように、引退の時期を探るようになっていった。──
○この社会は、どうしようもないほど好きになった女性を獲得するために身をよじるように悩み、あとさきも考えず、友人を裏切ってまで行動する「私」のような人間のために用意されているのだということに、Kはやっと気づいたのだ。
●Kが「私」へのしっぺ返しをしようとして死んだと考えるのは、Kの誇り高い性格を念頭におくとき、浅薄(せんぱく)な見方にすぎないと思われる。
○さらに、われわれに考えるべきことがあるとしたら、それは、「Kはなぜ死んだのか」であるよりも、「夏目漱石はなぜKだけでなくと私までも死なせたのか」のほうではないか。

6、Kがそこまで思いつめていたのなら出家してしまえば良かったのに、という考えについて
●Kはもともと寺に生まれた。だから、一般的な僧侶の生活がどのようなものであるかを知っている。青春のはじめにその寺を捨てる生き方を選んだKにとって、出家することはただの逆戻りを意味した。K自身の気持ちでは、むしろ出家するように寺を飛び出したのだ。そうやって手に入れた、かけがえのない自由を、その人生の最後まで行使することが、唯一かれの誇りを守る生き方だった。(ただし、彼の生まれた寺の宗旨である真宗の開祖親鸞の教えは、常に前向きで、積極的なものだったのだが)
○Kはこれまで、その心を固く冷えびえとさせて生きてきた。お嬢さんの家にきて以来、いつの間にかその心が温かみを帯びてやわらかくなっていた。Kは、また心をかたくしたいとか、冷えびえとさせたいとかいう発想は浮かばなかったはずだ。Kはもう、今のままでいたかったのだ。

7、題名が『心』ではなく、『こころ』である理由
●明治時代とは産業や金融や軍隊だけでなく、学問や芸術まで「近代化」を推し進めた時代だった。そのときネックになったのは日本語だ。それには二つの理由がある。一つ目は、江戸時代までの各地の言葉は同じ国の言葉とは思えぬほど違っていた。鹿児島の人間と青森の人間が出会っても会話は成り立たず、筆談するしかなかった。その筆談に使われるのは漢文もしくは漢文的和語。「共通語としての日本語」はなかった。二つ目は、和語だけでは近代化に耐えられそうになかったこと。だから、すでに幕末から始まっていた欧州語の日本語への置き換え(翻訳)が急ピッチで進められた。その結果出来上がりかけた新日本語とは漢字の熟語(漢音語)だらけの珍妙な和語だった。つまり、「・・は・・を・・で・・すべし。」の・・部分はすべて漢語で読むときは漢音。今流に言うなら、「これからのヤングピープルはすべからくイングリッシュをスクールでラーニングすべきだ」式になる。「こんなことなら日本語を捨ててて英語を国語にしよう」「いやフランス語のほうがより明晰にものを考えられる」と真面目に議論されたほどだ。
 それを救った大きな貢献者のひとりが夏目漱石。かれの新聞小説は全国で読まれ、漱石の日本語を話せるようになったら日本中どこででも話が通じるようになった。と同時に、漱石は、和語(訓読み)が深い思索の手段としても、その表現の手段としても有効であることを証明しもした。(その漱石自身は英語で考え、それをいちいち和訓語に置き換えてゆくという、われわれには想像もつかないようなスーパーコンピューター並みの方法で小説を書いていたらしい)
 そんな時代に『心』という題名をつけたら、多くの知識人はまず「しん」と読んだにちがいない。といって「心」という素朴な和語にふりがなをつけるのは癪(しやく)にさわる。ひらがなの題名はそのようにして決まったのではないか。

補遺──『こころ』の構図
○Kは「私」に遺書を残して死んだ。「私」は、たまたま出会った現代の若者に遺書(教科書の部分)を託す。「覚えていてください。私たちはこのようにして生きてきたのです。」と結ばれている手紙を受け取った若者は、このあとどう生きてゆくのか。「私たち」とは、Kと「私」のみならず、お嬢さんや「私」が会うこともできなかったお嬢さんの父親や、そのほか、ものすごいスピードで変化をとげていく明治という時代に戸惑いながら、それでも自分の信じる価値観を捨てまいとして生きていた多くの人々を指しているのだろうが、それらのことについて漱石は、この小説ではまったく語っていない。
●「私」は『こころ』にあるように生きた。
夏目漱石が「覚えていてください」と依頼した若者とは、大正時代の若者たちだけでなく、平成の「私たち」でもある。
●この次々と課題がバトンタッチされてゆく関係を「『こころ』の構図」と呼んでおく。

補遺Ⅱ
●5の最後の○の問いかけに自問自答して終わりたい。
 ただし、すべては国語教師の想像である。
○この小説は、「ひとりの人間が倫理的理由によってみずから命を絶つ」過程を描こうとして企図(きと)された。「人には金や社会的地位以上に大切な倫理が必要なのだ。」だから、その倫理的理由は、すべての読者がうなづけるものでなければならなかった。
 「私」が倫理的理由で死を決意するには、もひとりの人間の死に対する責任を負わねばならなかった。
 そのようにして、逆算しながら『こころ』の構想が練られた。
 しかし、個人的理由だけではあまりに卑小(ひしよう)で、すべての読者を納得させられそうにない。そのとき浮かんだのが「時代に殉じる」人間の姿だった。人は環境の動物である。時代という環境が激変しても、人はカメレオンのように環境に順応して生き延びるのか?それとも? 
 その問をすべての読者に投げかけること。
 『こころ』は、緻密な計算にもとづいて書かれた漱石の多くの小説のなかで、珍しくも、書かれてゆくうちにそのテーマ自体がゆれたり、ずれたりして、微妙に変容していった作品であるらしい。それだからこそ色んな人間が色んな読み方をすることが可能な名作が生まれたのだろうと推測している。