冬休み特別宿題につけて

2年生へ
(生物の先生には内緒の話)

 今年も終わりかけている。
 冬休みにはいったら国語教師は、友人たちと京都でおちあって、若狭と大阪の旅にでる。もう三〇年ほどつづいている「大掃除のときの粗大ゴミである男たち」だけでの気楽な飲んだくれの旅だ。(粗大ゴミあつかいされるのは、国語教師だけなのかもしれないけれど)
 その話はいずれするかもしれないが、今日は別の話。今年知った新しい知識と、今年わいてきた新しい疑問についてです。
 イギリスのBBCが『二人のイーダ』の特別番組をつくった。
 いまから四七〇〇万年前の人類の遠い先祖の全身化石が発掘された。人間で言うとまだ五・六歳の女の子だった。発掘した若い学者にはちょうどそれくらいの年齢の「イーダ」という娘がいた。そこで彼はその化石を「イーダ」と名づけた。二人目のイーダの誕生である。
 四七〇〇万年前というと、もちろん我々の直接の先祖は生まれていない。これまでのところ、人類最古の化石とされているものは、南アフリカで発見された三七〇万年前の女性の化石だ。(たしか、ジェシーと名づけられたんじゃなかったか?)
 イーダには身長と変わらないくらいの長いしっぽがある。外形はいまのキツネザルそっくりだ。だが、その歯はもう人類のものにちかづいている。
 決定的だったのは、骨盤の形がわれわれに近づいていること。つまり「二足歩行をしていたサル」が発見されたのだ。
 これまで、進化のとちゅうで人類と猿が枝分かれしたと想像はできても、その証拠が見つからなかった。その証拠(ミッシング・リンク)が現れた。それも奇蹟的な全身骨格として。
 イーダの仲間はその後、驚くべきスピードで進化を遂げ、現在のホモサピエンスに到っている。いっぽう、キツネザルたちはいまもなおキツネザルのままだ。つまり、四七〇〇万年のあいだ、ほとんど進化しなかったことになる。
 新しい疑問はそこにある。
 「進化をするものと、進化をしないものの差はなにか?」
 「進化をうながすものがわれわれの体内にあるのだとすれば、それはいったいなにか?」
 すぐに思いつくのは遺伝子だ。遺伝子とは親が「私と同じになれ」と子どもに与える指令のようなものだ。が、同時に遺伝子は、じつは「私と同じにはなるな」という矛盾した指令も出しているのではないか。その「私と同じにはなるな」の指令がキツネザルよりほんのわずかに多かった種族、つまり「親と同じになってたまるか」という意志を体内に宿した種族、それが人類の究極の祖先なのかもしれない。
 そんなことを考えている。
 じっさい、原生生物から現在の生物まで、さまざまな進化が起こった理由はそこにしか思いつかない。
 八億年ほど前、この地球上に生命が誕生した。が、その後、この地球の環境は激変をつづけた。その間、大半の生命は環境の変化に耐えられずに死滅していったのに、ほんの一部の生命だけが生き延びることができたのはなぜか?
 彼らは「親と違うイキモノ」になることによって生き延びたのだ。それを進化という。いや、子どもに「アタシと同じじゃなからないかんとか思わんでもいいとやけんね。」と小さな小さなDNAというお守りを渡したイキモノの子孫のみが進化をすることができた。
 現存するその進化の目に見える代表例が鳥だというのは、すでに習ったはずだ。
 氷河期を迎え、恐竜は次々に姿を消していった。大きな体のものほど先に死滅し、小さな体のものは物陰に隠れることでサバイバルを図った。
 そのなかで、卵をあたためる恐竜があらわれた。外気にさらされた卵が凍りついてゆくなかで、彼らは生きのびた。さらに寒冷化がすすむと、その卵をあたためる恐竜たちのわきのしたには羽毛が生えはじめた。その羽毛にまもられた卵は孵化することができ、孵化したあとも母親の脇毛のなかでぬくぬくと育つことができた。そのうち羽毛は全身に広がり、氷河期も外界で過ごせるようになった。
 その羽毛が風になびいているうちに、フワっと宙に浮かんだ最初の恐竜は、そのまま空に舞い上がった、というクライマックスはもう小説家に任せよう。でも本当のクライマックスは、それよりずっと以前に、ずっとずっと地味に、ささやかなところで、ひそかにはじまっていたのです。
 君たちに渡した福岡伸一『生命のパラドクス』のなかに、「タンパクが先か、DNAが先か」という話があった。面白いと思った者は図書室で借りて読みなさい。冬休みはいいチャンスだ。
 遺伝子というもののの役割もまたパラドクスなのだ。そのパラドクスが進化の根元にある。
 昔の人はそんなしちめんどくさいことは知らなかった。でも、生命や進化の秘密は身についていた。だから父親は「オレを乗り越えろ」と息子に言い聞かせた。母親は娘に「ここに住みつづけんでもいいとやけんね。いいヒトにであったら勇気をだしてお嫁にいきなさい。アタシたちんことは心配せんだちゃよか」と言いふくめた。「蛙の子は蛙」という一方で、「とんびが鷹を生む」「はきだめに鶴」「藍は藍より出でて藍より青し」とも言う。
 そしていつか息子や娘は「生んでくれてありがとう」と思う。
 進化とそのこととは、けっして別物ではない。
 国語教師はそう思う。
 君たちの当面の最大目標は、その「生んでくれてありがとう」を言えるようになることだ。
 それが君たち自身のIDカードへのサインなのだ。
 来たる年が君たちにとって、充実した、稔り多い年となりますように。