勘三郎追悼授業

2012/12/13(木)

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 昨日から周囲が急に騒がしくなった。
 民主党みんなの党自民党。宣伝カーがなにやら言い立てていく。
 チビたちは大忙しで吠えまくる。自分たちの安寧・この場所の秩序を破るものにはやたらと敏感で、断固抵抗する。
──はい、お前たちのおかげで静かになったね。
 北朝鮮がミサイルを発射すると発表したあと、「もし発射したら、断固とした対抗措置をとる」というので呆れてしまった。
──する気もないことを口にするな。
 現実に実行したことは、安保理に提訴したこと。「お上に言いつける」ことが、断固とした対抗措置とはねぇ。チビたちでもも少しましな現実的行動をとるぞ。
 「断固とした対抗措置」と言うならそれは、領空を侵す飛行物体を撃墜することを意味する。それ以外の意味はない。もし日本が中国やロシアの上空にロケットを飛ばしたら、100%打ち落とされるだろう。それが当たり前なんだ。
 北朝鮮なみの空疎なことばを吐くのではなくて、せめて、「北朝鮮が我が国の上空に飛行物体を飛ばすのなら、それが平和目的か軍事目的かを問わず、我が国も北朝鮮上空に飛行物体を飛ばす権利を北朝鮮が認めたと見なす。その時期は、北朝鮮同様、われわれの自由裁量とする。」ぐらいのことは言えないのかなあ。
 自分がいちばん気になっているのは、自衛隊のなんだかいう迎撃ミサイルシステムが願い通りに機能したかどうかということだ。
 レーダーは的確にミサイルを捕捉しえたのか? 
 迎撃ミサイルは、コンピューターのシミュレーションによると、北朝鮮のミサイルを撃墜しえたのか?
 報道をみるかぎり、ただの一社もそのことを質問した気配がない。日本のマスコミにとって、日本の防衛はどうでもいいことらしい。もちろん質問したところで、ノーコメントに決まっている。いくら「情報開示」「公明正大」優先の政権でも、言えないことがあるくらいの常識は備えているだろう。しかし、そのノーコメントの言い方で、それ相当の予測がつく。それを読み取るのが取材の妙味なんだ。
 わたくしめに言わせたら、ミサイルの発射実験なんて、それが実験であるなら「ライライ」なんだ。ただでミサイル防御システムの演習ができる。もしそれに失敗したなら、自衛隊はホントに張り子の虎どころか、ただのオモチャの兵隊にすぎないことになる。国防軍どころの話ではない。
 数年前、北朝鮮が韓国の島を砲撃したときの、韓国軍のテイタラクは目もあてられなかった。あの国はもう完全に平和ぼけしている。あの国と軍事的協力関係をむすんだとしたら、たぶんその平和ぼけ病は一気に日本の自衛隊にまで伝染する。それくらいひどい。
 だけど、いまの自衛隊に、いったいどれほどの実戦能力があるのか、誰も測ったことがない。
 チャンスなんです。
 自衛隊にこの国をじっさいに守る能力が少しでもあるのかどうか、それとも、海保どころか、警察や消防署ほどの実際的能力ももっていないただの税金泥棒なのか、それを測る絶好のチャンスなのです。「お前等が役にたつ存在なのかどうか見せてみろ」というのが、マスコミの役割なんじゃないかなあ。
 首相は防衛大臣を通して自衛隊に「破壊命令」を発令したという。が、それを真に受けた隊員はひとりもいまい。第一、日本の領土に落下してくる場合のみの破壊命令なんて「破壊命令」にはならないでしょう? もし日本の上空で空中爆発してばらばらになったら、その複数の落下物をどうやって「破壊」するんですか?
 ことばだけで国を守れるなんて信じているはずもないのに、ただの空疎なことば遊びを大まじめな顔をして政府がやっている。そんな国はバカにされて当然だ。わたくしめなら、バカにするよ。そんな国とは真面目に外交交渉する気になんかならないよ。「ええ、も少し威しでもかけとけ。」
 明後日は投票日。
 もちろん投票には行きます。投票する人物も政党も決めています。
 が、浮動票とやらの多さには閉口する。
 前回の総選挙のときはあっちにザアー。たぶん今回はこっちにザアー。この国では小選挙区制は無理だ。混乱を助長するだけ。
 浮動票というのは、要するに自分が帰属するものをもっていない人たちということだろう。帰属するものがないことが自由だと思いこんでいるんだろうな。そういや一昔前には「デラシネ」ということばが流行っていたっけ。「デラシネの旗」という表現を思いだしたが、なんとも胡乱なことばだったな。旗があったらデラシネにはならないでしょう?帰属するもののイメージを持たない者がもしいるとしたら、その人はただの浮遊物だ。浮遊物は当然のこととして風向きによって同じ所に集まる。
 気分だけのデラシネ。気分だけの自由。気分だけの平和。気分だけの貧しさ。
 近所に、いつも福島某女のポスターを貼っている家がある。たぶん社会党時代からの支持者なのだろう。なんとなくだが、新聞によると「日本発祥の地はここ(今山)だ」と主張している人が近所にいるそうなんだが、同一人物なんじゃないかなという気がしている。主義主張をこえたシンパシーを感じるのです。
 たぶん学ぶということは、いろんな要素があるだろうけど、そのなかの大切なひとつは「自分が帰属するべきもの」を見つけるということなんだと思うよ。それがみつからないのに大学を卒業しちゃっていいのかな?
 しかたないんだよね、卒業しなくちゃ。でも、だったらせめて、卒業後も、自分はなにに帰属するのか、そのイメージを追いかけなきゃ、高等教育を受けてきたことにはならないでしょ?
 話がどんどん流れていくので、このくらいにします。
 そういえば、『ふらう』を本にしようと思った頃の長歌で、
「 菅浦に来てぞ覚ゆる 行方なき国のあとさき 」と詠った。なんも変わっとらん。みごとに何も変わっとらん。

別件
 2年生の最後の授業で、中村勘三郎追悼授業をやった。
 襲名とは文化的DNAを受け継ぐことである。受け継いで親になりかわることである。時間がかかるかもしれないけれど、勘九郎はいつか勘三郎を襲名する。それは、『俊寛』を演じる決心がついたときだ。
 もし、次回博多座で『俊寛』が上演されるときは、その現在の勘九郎勘三郎を名のって息子に文化的DNAを受け渡す現場にぜひ立ち会いなさい。
 授業内容は以上。
 なんでたったこれだけのことを言うのに20分もかかったのだろう?
 授業が終わったあと廊下をおいかけてきた生徒たちがいた。
──先生、博多座のチケットはどこに行けば買えるんですか?
 できることなら来年度もこの学校にいたいな。