沈黙するためには、ことばが必要である。

石原吉郎『望郷と海』

2012/12/20(木)

 明日から二泊三日の関西旅行。
 今回は目的がまたひとつ増えた。鮒伊の鮒寿司をゲットすること。でも、その話はいずれまた。
 今日は、先週からぼちぼち読みはじめた、石原吉郎『望郷と海』から、いくつか引きます。まだ読みはじめたばかりなんだけど、(この冬休みは、これ一冊にしようと思っている)話したいのです。
 石原吉郎は、ロシアのいわば国内政治犯となり、裁判で(ロシアの市民権を剥奪され)重労働25年の刑を言い渡され、他のさまざまな国籍の政治犯といっしょに一般の捕虜以下の苛酷な強制収容所暮らしを余儀なくされた。帰国したのは昭和28年。

 その間のことを、たとえば次のように語る。

──栄養が失調していく過程は、フランクルが指摘するとおり、栄養の絶対的な欠乏のもとで、文字どおり生命が自己の蛋白質を、さいげんもなく食いつぶして行く過程である。それが食いつくされたとき、彼は生きるのをやめる。・・・ある朝、私の傍で食事をしていた男が、ふいに食器を手放して居眠りをはじめた。・・・驚いてゆさぶってみると彼はすでに死んでいた。・・・すでに中身が流れ去って、皮だけになった林檎をつかんだような触感は、その後ながく私の記憶にのこった。・・・「これはもう、一人の人間の死ではない。」私は、直感的にそう思った。
 
 あるいは、Kという友人について次のように語る。訊問する側が根負けして、「人間的に話そう」と提案したとき、Kは次のように答えた。(「人間的に話そう」とは、「もうこれ以上追求しないから、その代わりに受刑者に関する情報を提供しろ」という意味なのだそうだ)
──Kはこれに対して「もしあなたが人間であるなら、私は人間ではない。もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない。」と答えている。取り調べが終わったあとで、彼はこの言葉をロシア文法の例題でも暗誦するように、無表情に私にくりかえした。
 
 「強制収容所においてはオプチミストしか生き残れない」と石原は言う。
──あのような環境では、人は、ペシミストになる機会を最終的に奪われる。(人間が人間でありつづけるためには、周期的にペシミストになる機会が与えられていなければならない)なぜなら誰かがペシミストになれば、その分だけ他の者が生きのびる機会が増すことになるからである。・・・なまはんかなペシミズムは人間を崩壊させるだけである。・・・そのなかでKは、終始明解なペシミストとして行動した、ほとんど例外的な存在だといっていい。

 この話は以下のように終わる。
──帰国した翌年、Kは心臓麻痺で死亡した。狂気のような心身の酷使のはての急死であった。彼はさいごまで、みずからに休息をゆるさなかったのである。

 以下、抜き出したことばだけを書く。脈絡から切り離すのは不当だとは承知していても、書かずにはいられないことばがある。

──死は、死の側からだけの一方的な死であって、私たちの側・・・からは、なんの意味もそれにつけ加えることはできない。死はどのような意味もつけ加えられることなしに、それ自身重大であり、しかもその重大さが、おそらく私たちにはなんのかかわりもないという発見は、私たちの生を必然的に頽廃させるだろう。しかしその頽廃のなかから、無数の死へ、無数の無名の死へ拡散することは、さらに大きな頽廃であると私は考えざるをえない。生においても、死においても、ついに単独であること。それが一切の発想の基点である。
 私は広島について、どのような発言をする意志ももたないが、それは、私が広島の目撃者でないというただ一つの理由からである。しかしそのうえで、あえていわせてもらうなら、峠三吉の悲惨は、最後まで峠三吉ただ一人の悲惨である。この悲惨を不特定の、死者の集団の悲惨に置きかえること、さらに未来の死者の悲惨までもそれによって先取りしようとすることは、生き残ったものの不遜である。

 国語教師には、最後の部分は「生き残ったものの頽廃である」と聞こえる。

──一人の加害者が、加害者の位置から進んで脱落する。そのとき、加害者と被害者という非人間的な対峙のなかから、はじめて一人の人間が生まれる。〈 人間 〉はつねに加害者のなかから生まれる。被害者のなかからは生まれない。

──時間の感覚のこのような混乱は、徐々に囚人をばらばらにして行く。ここでは時間は結局、一人ずつの時間でしかなくなるからである。人間はおそらく、最小限度時間で連帯しているものであろう。人間に、自分ひとりの時間しかなくなるとき、掛け値なしの孤独が彼に始まる。・・・シベリアでは、この過程はアジア的蒙昧のなかで、ねじ伏せるように進行する。頽廃がいずれの側(ナチの収容所とロシアの収容所)にあるかは、私の感知するところではない。バルト海岸に到るまで、ロシアは完璧にアジアである。

──なんの影に曇らされることもない。いや、ほとんど幸福とさえいえる一日が過ぎたのだ。〈ソルジェニツィン『イワン・デニソビッチの一日』〉

──沈黙するためには、ことばが必要である。


別件
 12月はじめで授業の終わった3年生と廊下で出くわした。
 そのなかのひとりが駆け寄ってきた。最初に教室に入ったとき、ガムを噛みながらこちらを見た女の子だ。背は国語教師より頭ひとつぶん高い。
 その子が二学期の席替えでいちばん前の席に来ているのでびっくりした。大学に行きたいのだという。冬休みの補習にも出てきているんだ。
──わあ、せんせい。現代文どうしたらいいと? 五つあるやろ。そのうち三つは削りきると。残りの二つのうちのハズレをひいてしまうゥ。
──それはよくあることじゃ。めげるな。
──はあい。がんばりまあす。
 それだけでまた駆けていった。
 「不思議の勝ちあり。不思議の負けなし。」とは野村監督の名言。しかし、彼女の場合は、大学には行ってほしいけれど、最後まで「不思議の負け」のままであってほしいと思うのは、教員失格かな?