年末旅行報告

2012/12/28(金)

 終日雨の予報。
 傘をさしてコンビニに行っていたら、近所のお年寄りから声をかけられた。
──今日もご出勤ですか?
 いえ、今日から冬休みです、と答えると、
──いやあ、それはそれは。
 あの方は国語教師を、自分と同世代だと思ってくださっているらしい。
 
12月21日〜23日。恒例の旅行。
 3年前だったか、木之本の民宿で七本槍というお酒を飲んだら、やたらと愉快になって夜中すぎまでふざけまわっていた。あとでFが「あれには笑い薬がはいっていたのかもしれん」というぐらいだった。
 その後、毎年、「七本槍」「七本槍」と探すが見つからない。ほんとうの地酒なのだろう。
 今年は筑豊の地酒「寒北斗」を持っていったら、これはこれでまた不思議な酒だった。酔ったというよりは(酔ったにはちがいないのだが)頭の中からよけいなものが消えていったという感じ。(何がよけいなのかをいちいち判別する気もない。消えていったものは自分にとってよけいなものだったんだ。)だから、頭が軽くなって、思いがけぬことがよぎってゆく。
 その、よぎっていったものをタイプして、今年の報告とします。

 グレコの「トレド(地名を間違えていたらゴメンナサイ)」について、野見山暁治さんがなにか書いていた。それを読んで、野見山さんの「福岡の焼け跡」が分かった気がした。そのとき分かった気がしたというのは、グレコの絵そっくりの風景が自分の前にあることに興奮したのだなということだった。それほど野見山さんの絵は神々しかった。
 人気も神気もないただの廃墟なのに神々しい。そのことが不思議だった。
 が、それは完璧な勘違い。人の気配も、神の気配もないから、神々しかったのだ。
そこで、よぎってゆくものが、するっと入れ代わる。
 ことばでだけしか知らないのだけれど、カントのいう物自体もまたそういうことなのだろう。神の息吹とも人の手垢ともまったく無縁の物、きっとそれを物自体と呼んだのだ。
 『純粋理性批判』はたしかフリードリヒ大公に献げられていた。(ような記憶がある。)「物自体」ということばは神にささげられたことばだったんだな。

 そんなことがヒョイと考えるともなしによぎってゆく。
 究極の真理とは真空のようなものなのかもしれない。だから、その究極の真理に最接近したひとは、もうそれ以上のことを云わない。云おうとしない。
 どうやら、そういう仕組みになっているらしい。
寒北斗はいい。片手に寒北斗、もう片手に七本槍。なんという贅沢。
 わいわいやりたいときは七本槍、ひとりになりたいときは寒北斗。
 そういえば先生は、「話したくもない人間と話さなきゃいけないときは、ビールかウヰスキーにする」と云っていた。「自分と話したいときは酒だな」よくお飲みになりましたね。家族のかたは酒屋にダースでもってきてもらうと笑っていらっしゃったけど。
 
 あとひとつ付け加えて終わります。
 東大阪市にある「喫茶 美術館」で、須田剋太の抽象画と書を腹一杯みることができた。ご主人に感謝。そこにある雑誌で、若い頃の須田剋太の写真をはじめてみてびっくり。こちらも若い頃、韓国で見かけた若い僧侶そっくりだった。その顔があの顔になる。
 生徒が言った、ウーパールーパーの意味が分かった気がした。
──いやぁ、まだまだ、あの域からは遠いと思うよ。

別件
 補習の最終日、12月はじめまで授業に行っていたクラスの生徒たちと、たまたま入れ違った。
 もう誰一人、愛想笑いをするどころか、目を合わせようともしない。
──あいつら、ひょっとしたら志望校に合格するかもしれんぞ。