東北の詩人

 2013/02/20

 きのうはほぼ一日小雨。つめたかった。
 けさ散歩にいくと、遠くのやまの稜線付近はしろくなっている。
 あとで散歩から帰ってきた主婦は、「長野県みたいやった」とご満悦。入試シーズンから卒業式までに、例年も一度くらい寒波がやってくる。だいたいそれで冬がおわる。
 先週末、「鞄がえらく重たいな」と感じた翌朝の散歩は、こんどは足が重たい。その後、三日間布団のなか。「風邪をひくのは緊張感がない証拠だ」まったく高校時代に言われたとおり。ただ、気をぬいても何とかなるときは思い切って気をぬくのが、ツクゴタロイモの流儀ではあるんだが、今回はちょっとひどかった。
 それにしてもよく寝た。この調子だとグループホームの隣人だったKさんみたいに、二日に一度目をさますようになるのもそう遠い話ではない気がしてくる。それもアリ。享年99歳。
 三日三晩眠ったら、さすがにその翌晩は真夜中にガバッと目がさめた。いったんそうなると今度はもう眠れない。ガバッと目がさめたのは、どこからか「クランボンは笑ったよ」というこどもの声が聞こえた気がしたからだ。目がさめたらまた「クランボンは笑ったよ」
 そうか、宮澤賢治の詩は読めるのに、童話が読めない理由がわかった。
 こわかったんだ。
 あれは寓話じゃない。なま話だ。だからこわかったんだ。
 去年か一昨年か、草野心平の「第百階級」以前の詩をよみはじめて、あわてて閉じたことがある。自分が動揺してきたのを感じたから。あれは同じパタンだな。
 西洋音楽(といっても東欧系)で、人間が寝静まったあとの戸外を表現したらしいものを幾つか聴いたことがあるが、人間の体臭が消えたあとの夜の世界は、こちらの輪郭を意識させてくれる。
 宮澤賢治草野心平のものはそれよりはるかに生々しくて怖い。二人の自然にくらべたら、芭蕉の「造化」はただただ観念的だ。いや人工的だ。
 が、怖かった理由が分かってみれば、これからは童話も詩も読めそうな気がしてきた。
 ただし、高校生には読ませない。なにも感じない者はよし。しかし、あの恐怖を感じるセンサーを持っているものがいる可能性は十分にある。小学生なら平気で消化できるものが、思春期には激烈な毒になる。

 1920年代の草野心平の詩をひとつ入力して、今日は終わります。
  蛙よ
  口笛をふいて
  寂しい月蝕をよべ
  花火をかこんで
  青い冷や酒を傾けよう
 
別件
──センセイは何歳ですかぁ?
──64.
──うわぁあ!!
──君たちの3倍以上がんばっているんだ。少しは尊敬しなさい。
──ワタシ、尊敬してまあす。
──尊敬しているんなら授業中に寝るな。