熊野純彦『lレヴィナス入門』読了

熊野純彦『lレヴィナス入門』Ⅱ部より

●自己(主体の主体性)とは〈私〉の同一性の破損である。自己はたえず自己からずれてゆく。主体性はあらかじめ破綻しており、傷ついている。
ハイデガーの哲学は「所有し大地に家をたてる、定住民族の運命を表現している」。ハイデガーを超えることは、この運命と形式を超えることである。
●空間の空虚が見えない大気によって充たされているということが、知覚されるのではなく、内面性の襞にいたるまで私をつらぬく・・・この不可視性は、いっさいの主題化に先だって私を強迫する。・・・これらの意味するのは、存在に足をつけるのに先だって苦しみ、みずからを提供する主体性である。この主体性は受動性であって、まったくもって耐えることなのである。
●身体は、かくして獲得であるまえに喪失である。身体性とは不断の自己喪失である。
●感覚するとは、あたえられて在るものにたんに満足することである。日だまりのなかでなかばまどろみながらこの葉のみどりを感覚するとき、みどりの煌めきと私とのあいだに距離はない。私はたんにそれを享受している。
●感受性は意識に先立つ。意識の「志向性」に先行する。
●主体性が「〈同〉における〈他〉であり、主体がすでに〈他者〉を孕んでいるとすれば、それは感受性という次元で生起していることがらなのだ。「いっさいの受動性よりも受動的な受動性」としての感受性の次元において、私は〈他者〉と呼ばれている。
●感受性はみずから傷を負うこと、じぶんが傷つくことではじめて、対象を感覚的に認知する。 
●煌めくみどりがみどりとして認識されたとたん、この葉のみどりはすでに私との距離をもち、みどりの葉と私とはへだてられてしまっている。〈近さ〉は生きられるが、認識されることがない。「〈近さ〉とは物語えないものなのだ」
●他者の現在の現前は、いつでもその痕跡であり、それ自身の痕跡なのである。
●気づいたときには、他者がすでに呼びかけている。他者はその裸形において呼びかけている。・・・(その呼びかけにたいして)私はすでに諾否の選択のてまえで応答してしまっている。
●私が〈私〉であること、私の同一性は、ひたすら他者にたいして責めを負うこと、呼応しつづけること、他者との関係がけっして完結しないことによるほかはない。私がこの私である、私が単独であり〈私〉でありつづけるゆえんはひたすら「召喚されたものの唯一性のうちにある」。私が気づいたときにはすでに〈私〉であり、この私として他者から呼びかけられていたということの、要するに、私のなりたちにまつわる時間の錯誤(アナクロニスム)の、ひとつの帰結である。
●「ユダヤ教とは、同時代と時間を共有しながら、時間を共有しないことである。ユダヤ教とは、そのことばの根源的な意味においてアナクロニックな意識なのである。」
●時間の錯誤に囚われ、いわれなき苦しみに曝されることが、ユダヤ民族の歴史的命運であったとすれば、その命運はだれにとっても無縁のものではない。およそ〈私〉であるということが、アナクロニスムをふくんでいるからだ。
 私の「唯一性」は、「われ、ここに」(創世記)という無条件的な諾にある。「他者にとりつかれている」ような「われ、ここに」にこそあるのである。
●「ユートピア的ということばを、私はおそれません。じっさい私は、ほんらいの意味での人間は《あるがままの人間》においては目覚めることができない、と考えています。・・・・存在における私の席、私の場所を問いただすこと、これがユートピア的ということではないでしょうか。」

※抜粋したものには、熊野純彦のことばとレヴィナスのことばがごちゃごちゃになっている。「」がついているところはレヴィナス自身のことばと考えてください。
 読み終わっても、なにがわかったというわけではない。ただ、レヴィナスというひとはホントにえらい人だったんだなとは思う。ただし、「どうしてこう何もかもを言語化しようとするのだろう?」という、その情熱にたいする不気味さみたいなものは今もつきまとっている。

 最後に、まとめの部分を書き写します。
 1995年のすえ、レヴィナスは死去する。(註 1905年生まれ)奇しくも12月25日のことである。今日なお地上の多くのひとびとが救い主の到来をことほぐその日に、かたくなにユダヤ人でありつづけようとした、つまり「時は満ちた」とはなお信じえず、べつの時、べつの場所の到来を信じつづけた、ひとりの哲学者が世を去った。・・・・
 「神われらとともにいます(インマヌエル)」という名をあたえられたひとりの人物は、しかし皮肉なことに、この世紀の悲惨のかずかずを、神の不在を、目にしなければならなかった。その悲惨をまえに紡ぎだされた、強靭で、それゆえにこそ繊細な思考の跡だけが、こんにち私たちにのこされている。

別件
 先週、中学の修学旅行やりなおしに参加してきた。大半のものにとっては4回目のやり直しだったらしい。総勢18名。うち男は4名。
──女たちのほうが元気ゴタあね。
 と東京から来た幹事に言うと、
──ほんとバイ。去年「ひさしぶりに帰るから会おう」ちメールを打ったらすぐ返信がきて、「いまパリです。会えません」ちゅうとやもん。参るバイ。
 新幹線で渡された行程表を見て、「奈良に集合してから昼飯か」と思いこんでいたら、「かってに食っとけ」という意味だったと知ったのは、法隆寺についてから。けっきょく晩飯までなにも食えなかった。「ちゃんと読まんきタイ。」はやとちりは小学校のときから変わらない。
 会ったとたんに、「あんたのおかげでフェルメールをもう8点もみたよ。それまでは、これナン?としか思わんやったとに。」と言う。「ありがとう」
 関西の修学旅行だったのは覚えているが、どことどこに行ったのかはまるっきり覚えていない、というと、「大阪城には行った。」集合写真があるのだそうだ。こっちは20才のときに何もかも焼き捨ててしまったので、(62才のとき、またぞろ似たようなことをした。人間の性格というのはホントに変わらない。いやたぶんその「変わらない部分」を性格と呼ぶんだ)「ふうん」と言いつつ、「法隆寺やら行った?」「どこかは覚えとらんばって、仏様に見とれていると、コラッ、皆バスニ乗り終ワットルゾ!、ち男の先生から怒鳴りつけられたとは覚えとる。」
 その仏様に再会した。「やっぱ来とるバイ」
 金堂壁画の模写に半生を費やした和田英作の絵はたぶんはじめて見た。
──説明してよ。
 (ベツにオレ、歴史や美術の教員じゃないとバッテ)
 一息入れてから中宮寺に行き、「あれ?」と思って受付の女の子に尋ねると「はい、現在の建物は昭和43年に造られました。もとの建物は高野山に移築されております」とよどみなく答える。おなじ質問をする老人たちが多いのだろう。
──半カ思惟像はもっとちかくで見た。
──なかはもっと暗くなかった?
──回廊があったよ。アタシそこを一周したもん。
 「法隆寺やら行ったかね?」と言っていたのに、その場にたつと50年前の記憶が甦ってくる。
──中学生にあんなもんを見せても何もわからせんのに、と思いよったが、そうでもないゴタあな。
 フランスから医療器具を輸入する会社を興して成功したという男が言う。
──うん、種をまくだけでいいと。あとは本人次第。
 晩飯のときその男とゆっくり話せた。
 東京の同窓会で当番になったとき、野見山暁治さんのボタ山のTシャツを参加者全員に渡そうと思いたち電話をしたら、秘書をしている同級生の娘がでた。
──それ知らんやった!
──その娘がな、60万よこせちゅうとタイ。同窓会はそれぐらい持っているはずちゅうてな。
 じっさい500万ぐらいあった。ばってん、「これは、おれが思いついてポケットマネーでやろうとしよることやから、みんなの金には手をつけん。安くせえ」ともめよったら本人が電話にでて、「20万でいい」ちゅうてくれた。
──そのTシャツあまっとらんね?金はちゃんと払う。
──それがタイ。同窓会が終わって、二次会に行ったところまでは覚えとるとバッテン、次の日、家で目を覚ましたときにはもうなかった。だから、オレも持っとらん。
 愉快な男と知り合えた。
 みなよりひと足はやく戻ってきたが、「こんどは再来年の秋に集まることになった」とメールが届いた。「それまで元気にしていよう」