吉本隆明デビュー

吉本隆明『固有時との対話』

 前期高齢者入りを目の前にして、吉本隆明著作集Ⅰ『定本詩集』を買った。きっかけは同封の、病院の待合室でめくっていた週刊誌の鹿島茂による刺激。健康診断でおどされて通いはじめたのだが、それはそれで面白い。
 詩集をひらいてびっくりした。そのびっくりさは、数年前、草野心平の私家版時代の初期詩集をひらいたときに似ている。あのときはすぐに、”ぱたん”。その文字をみていたら、自分の芯のほうでうごめき出すものがある。「まだヤバい。」
 ずいぶんまえの『マルテの手記』のときもそうだった。あのときは芯だけじゃなくて体中が泡だってきた。が、今回は読んでゆくことになる。
 「えらそうに」と言われるのを承知で言うと、詩人のことばがスウっと入ってくる。読んでいるときになにも考えていない。考えているとすれば、それは全然べつのことばかり。その感覚が不思議だ。蠢いているのは詩人のことばのほうなのだ。
 吉本隆明という人は、なにものかである前に、詩人だったんだな。はじめて知った。
 そういう感じ方をする人はほかにもいる。
 本棚には、矢山哲治の詩集がずいぶん前から置いてある。いちど開いたけれど、すぐに閉じた。「まだ、その時じゃない。」
 たしか、20代で踏切事故のために亡くなった。ただし、そのときの状況をみたひとは誰もいない。友人たちがその死を悼み、一冊の詩集を編んだ。題名はたんに『矢山哲治全集』(全一巻)となっている。
 結果的に25年間も席をおくことになった学校の図書館にその『矢山哲治全集』があるのに驚いて司書に訊くと、「M先生の寄贈です。」と言う。さそわれたとき今の家主は「給与はいくらでもいいから身分保障のあるところにしてくれ」と言ったけど、「この先生といっしょに働けるのなら、一年契約でもかまわない」と思ったひとだ。
 いまはこのGGもずいぶんたくましくなった。いや、たぶん有難いことに、ずいぶんボケてきた。おかげでホンモノの詩にさわっても、それで自分の芯が動揺を来しても、まだ椅子にすわっていられる。(はたから見たら相当にアブナいのかもしれないけど)
 ここで言う「ホンモノの詩」とは、近代以前の日本にはなかった詩、というぐらいの意味です。日本はもともと歌の文化だったら、ホンモノの歌人はたくさんいたけれど、詩人はいなかった。芭蕉も蕪村も、そういう意味では歌人の範疇にはいる。
 その詩には、いくつもの旋律がどうじに重なりあって流れている。それも、同じスピードではなく、同じ方向へでもない。いわゆる現代音楽に近いんだが、その現代音楽といっても20世紀初頭をはさんだ時期のもののほうにその傾向が強いように思う。日本は少し遅れて、伊福部昭芥川也寸志
 吉本隆明を読むまえにやりたいことがあったんだけど、どうなることやら。偶然にまかせるのがいちばんの方法のような気がする。あるいは、得意の同時並行ぎっこんばったんになるかもしれない。

別件
 単身赴任をしている前の家のお父さんが夕方に帰ってきた。
 荷物を置いたらまずは、散歩。メリーは体を小躍りさせるようにして出かけていった。以前にも同じ場面に遭遇したので、「お父さんが帰ってきていちばんうれしいのはメリーかもしれませんね。」と余計なことを言ってしまった。
 ふだん世話をしているお母さんのことを彼女はどう思っているのだろう?ふだんはただただ「お父さんに会いたい」とそればかりを考えているのかもしれない。
 なぜそんなにお父さんばかりを好きになったのか。その理由をメリーに訊いても答えようがあるまい。「好きだから好き」なのだ。
 いまGGのあしもとで寝ているピッピや、ソファで自分の下腹をなめているガロもまたしかり。