アンネの日記
生徒向けプリントより
「やがて四人はあるゲームをはじめる。アンネ・フランクの日記を読んだことのある人ならば、自信の属する国や民族がなんであろうとま、このゲームの主題を一度は考えたことがあるのではないか。」――角田光代――『アンネ・フランクについて語るときに僕たちの語ること』書評より
上の書評を読んでいる内に「 」部分が妙に気になりだし、今頃になってはじめて、『アンネの日記』を読んだ。たぶん今でも推薦図書に入っているのではないだろうか。
ナチスの迫害を遁れてドイツからオランダに渡り、さらに危険を感じたアンネの家族は2年数ヶ月の隠れ家生活をする。その間の、13才から15才までの日記です。
気になりかたが妙だったのは、書評をよんでいてまずいちばんに、学生時代に読んだ『ヴァージニア・ウルフなんかこわくない 』という戯曲(お芝居の台本・・・作者は誰だったか?)のことを思いだしたからです。中年の夫婦二人だけの家庭劇だった。その終幕近く、ゲームに疲れ果てた夫が妻に「ねえ、○○、僕たちにはホントは息子なんていないんだ」と言う。そのあとドラマがどう展開したかは覚えていない。
文庫本のページをいくらめくっても、アンネたちがゲームをはじめそうな気配がまったくなくて戸惑ったけど、最後まで(あとがきまで含むと、597ページ)読んだ。読み終わって気がついた。隠れ家生活以後、日記をつけはじめたこと、それがアンネ・フランクにとっての「ゲーム」だった。角田光代はそう言いたかったんだ。
ではその主題を角田光代はなんだと考えているのだろう?
でも、読み終えるだけで疲れてしまった。
もう、はやく、図書室から借りた、ブルース・チャトウィンの『どうしてボクはこんなところに WHAT AM I DOING HERE』を読みたい。
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角田光代のことを考えていた。
彼女は、「物語るということはゲームなんだ」と言っているように思える。
若いころだったら、そう聞いただけで「カアーッ」となったような気がするけど、いまは「なるほど、そうなのかもしれない」と思う。年若い彼女のほうが国語教師より大人だ。
われわれが手にした貴重なゲーム。服装とも、体型や顔立ちとも、財産とも、社会的地位とも関わりなく、すべてのものに平等に授けられた、だれひとり前もってのアドバンテージを与えられていない、道具もルールも必要ない、もちろん勝者も敗者もなく何の報賞も期待されない純粋なゲーム。それを「贈与」だと感じた人々がいてもなんの不思議もない。
そのひとたちの子孫から、特異な芸術家や学者が輩出したのは、とうぜんの成り行きなのかもしれない。