限りなく無神論にちかい一神教

「限りなく無神論にちかい一神教」について──チャトウィンを読みながら
                ──いつ書き終えるのやら──
 『パタゴニア』を、もう期限がすぎているのにまだ読んでいる。
 今日のところには、アーチー・タフネルというイギリスからの移住者で、地元民からあつく信用されている爺さんが出てきていた。
 牧場を任されたあと、本国へ帰るやとい主からそこを買い取って、働くものたちにはもとの経営者の大きな屋敷を提供し、自分はワンルームのキャビンを建てて暮らしている(チャトウィンのことばを借りると)自己中心の独身者。「かれは、どうすれば自分が変わらないでいられるかを分かっていた」
 そのタフネルの小屋にはソファも安楽椅子もない。「いちど肘掛けイスに沈み込むと、この年ではもう二度と立ち上がれなくなる気がするんだ」イギリス人のことを何とかって呼んだな。こういう男のことを言うんだろう。
 その『パタゴニア』のなかで、W・H・ハドソンなる男のことばを引いている。
「砂漠をさまよう者は、自身のなかに原始の静けさを発見する。それはひょっとしたら神の静けさに匹敵するものかもしれない」(『パタゴニアの怠惰な日々』)チャトウィンの文章は意外なほどブッキッシュなのです。
 神の静謐。
 今日の長話はここらへんからはじまる。
 そのチャトウィン自身は、大西洋側から太平洋側に歩いて移動したときのことを次のように言う。
「道路は灰色の蜃気楼のなかから始まり、灰色の蜃気楼のかなたに終わっていた」なんでそんなに歩くんだ?
 素朴な疑問を覚えたときに思いだしたことがある。
 レヴィナスモーリス・ブランショレヴィナスがドイツ軍の捕虜になっているあいだかれの家族を守り抜いた、自称王党派の友人)について語ったなかにあった。もう自分のなかでは、どこまでがレヴィナスでどこからがブランショなのか分からないことば。
「流浪とは定住を目指す移動のことではない。それは大地とのひとつの還元不能の関係の仕方のことである。それは場所なき滞留だ。芸術がそこへと指し招く暗がりを前にしたとき、、、、『自我』は匿名の『ひと』のうちに解消する」
──ブランショにとって、文学とは、流浪性という人間の本質を呼び覚ますものなのだ。
 その文学についてブランショは次のように言う。
「文学の到達点である『非真理』にこそ正統性は存在するのであって、断じて『存在の真理』のうちにではない。正統性は真理ではない。」
 レヴィナスはつづける。
「真理が彷徨の条件であり、彷徨が真理の条件である。──これは、同じことを前後入れ替えて言っているだけだろうか? われわれはそうは考えない。」
 レヴィナスの言いたいことは「わからん!!」
 しかし、わかることがひとつだけある。「真理は定在していない」いや、「真理は存在してさえいない」真理はない、ということではない。「定在する必要のないもの、それが真理なんだ」。ブランショが「真理よりも正統性を」というときの「性」もまた定在を拒む。
 『源氏物語』を単独でロシア語に全訳したタチアナ・デリューシナが書き残したことばを思いだす。
「それがどんなに本能に従っているように見えるときも、ひとは理念そのものだ」
 チャトウィンブランショも、あるいはレヴィナスも、デリューシナが「理念そのもの」と呼んだものに従って深海の鮫のように彷徨しつづける。「文学の到達点である『非真理』」に向かって。
 30代前半、大名の木造アパートでフランス人の本を読みあさっていたころ出会った「存在=去勢された非在」はだれのことばだったのか?
 その「虚勢されていない非在」こそ「限りなく無神論にちかい一神教」の神なのではないか? 正統「性」とはそういうことなのではないか?
 いま考えはじめているのはそういうことらしい。2013.7.14

 数年前にレヴィナスを読んでいたとき、なにか、水平方向にある無間地獄を覗きこまされているような生理的嫌悪感を覚えた、ということは何度も繰り返している。それを「無始原からの思考」と呼んだ男がいる。たぶん、似たようなことを感じたのだろう。
 ユダヤの神はいる。しかしそれはキリスト教徒のいう「存在」とは別のものだ。「虚勢されざる非在」。いわば点のような存在。しかもその点は定在していない。あたかも消失点であるかのようにしてある。それを感じたければ、自分のほうが動くしかない。動きつづけるしかない。流浪の民が気づいたのは、そういうことだし、それはたぶん、ユダヤの民のみならず、移動をしつづけたわれわれの祖先たちすべてが味わったことだ。その遠い記憶はまだ幽かにではあるが、われわれのなかにも残っている。
 「ひとは自分が知っていると思っている以上のことを知っている」──ヴァン・デル・ポスト──
 「神の沈黙」なんて幼児性の言わせることだ。「神の静けさ」その静謐がすべてだ。なんならそれを空白、と言い換えてもいい。神が空白なのではない。空白が神、なのだ。(まるっきりレヴィナスの口真似になってきた。でもレヴィナスはけっしてそんなことを口走ったりしない)
 空を人格化したものが仏。そう思ってきたし、いまもそう思っている。が、ここまでくるともう「あなたたちが神と呼んでいるものを私たちは仏と呼んでいる」というだけで十分な気がする。
 チャトウィンは、もう余命いくばくもない大学者に会う。かれはチャトウィンに自分のエッセンスを伝えようとする。
──君の宗派は?
──プロテスタントです。
──そうか、別々の道か。しかし、神はいっしょだ。
 道だけがちがう。
 ブランショの『明かしえぬ共同体』をひとことでくくるなら、社会主義に代表される近代化へのはげしい拒否反応だ。
進歩主義の目指すものはいっさいの均一化だ」その理想は、経済格差のみならず、民族性も性差もなくすことにある。そんなノッペラボウを拒絶すること。かれは王党派として20世紀のフランスで生きようとし、レヴィナスに出会う。
 何人もの人が引用しているサルトルのことばがある。イスラエルとアラブ世界の対立がにっちもさっちも行かなくなったとき、レヴィナスサルトルイスラエルに行くことを提案する。「君しかいない」が、サルトルは両者のパイプ役になるのを拒む。「社会主義の世界になれば民族問題はなくなる」
 民族問題の存在しない世界。いまの中国がまだそれを目指している。「自分たちがそうだったように、マンチュリアンもモンゴリアンもウイグルチベットも、いずれは漢に同化する」

 ひとは自分が自分でありつづけるために移動をつづける。「一所不在」は日本文化の専売特許ではない。2013.7.15

 赤とんぼの群舞をみて、「もう梅雨はおしまいだ」と思ったのにそのあと大雨。その雨があがったあとイトトンボを見かけた。そして昨夕はシオカラトンボ。今年は秋になるのが早いんじゃなかろうか。
 横道の話。
 東京のWという歯科医師さんからメールが届いた。3ヶ月まえに問い合わせたことを覚えてくれていた。
 30年ほどまえに聴いたエリザベータ・スーシェンコのその後の消息がまるっきりつかめなくて、福岡でエージェントをしているひとに訊ねたら「東京のWさんならわかるかもしれない。訊いてみます」とのことだった。
 Wさん自身はスーシェンコを聴いたことはないが、いまも演奏活動をしているようだ、とある。「いつか、あなたが日本に呼びませんか?」
 Wさんも福岡の女性もいわばフツウのひと。そのフツウのひとが、自分の聴きたくなった演奏家にちょくせつ連絡をとり交渉して、日本に招いている。ネット社会というのはすごい。宝くじがあたったらぜひ行動をおこそう。福岡なら、彼女の豊かな音量とまったくクセのない素直な演奏を覚えているひとが、まだたくさんいるはずだ。勘定してみると、当時中学生だったスーシェンコももう50才ほど。会ってみたいな。たぶん体重が1,5倍にはなっているだろう。ただし、この語学力ではねぇ。
 もひとつの横道。
 月初め、ガロが脱水症状で何度もひきつけを起こした夜がある。ただ見守るしかなかった。さいわいいまは散歩ができるまでに回復した。が、そんなことがあって、あらためてつくづく思ったこと。「かれらのほうが霊力はつよい」本気でそう思うようになった。
 二学期冒頭生徒に渡すつもりのプリントの主題は決めている。
 「ものいわぬ生きものたちと私たちのなかにある沈黙との連関」

 消失点の向こう側、その奥に潜んでいるもの。イスラエルの人々が「何かがいる」感じたところこそ、じつは世界の始まりだった。
 図式すれば、そういうことになるのだと思う。
 しかし、われわれは神々の国にいる。そこにはフェルメールの絵と同様にヴァニシング・ポイントが無数にある。
 いや、ほんとはわれわれ自身がその「消失点の奥」に潜んでいるのではないか。点でさえない。単なるエレメントとして。ガロやピッピや赤とんぼやイトトンボと同様に。べつに正しいことを言おうとしているんじゃない。そうではなくて、これはもう祈りなんだと思う。
 「存在する必要さえないもの」とは、そういうことなのだ、きっと。
 レヴィナスにはどこか多神教的においがする。おもてだってはひとことも漏らしはしていないけれど。そのほうに「正統性」があるのかもしれないのだ。
             2013.7.16
別件、かな?
 われわれがチャトウィンのように世界を放浪しようとするならそれは気ちがい沙汰だ。それは不可能なことなのだが(チャトウィンにとってもホントは可能なことだったのだろうか?)、じっさいにはわれわれも放浪をしつづけている。それを可能にしているのは、二元論的でない、われわれの使っているあやふやな日本語のおかげなのだと思う。べつに誇ることではないのだが。
 だれのことばだったかな、「詩 ロゴスのなかに整序されたものを(もいちど)散乱させること」