堀田善衛『橋上幻像』をよむ。

2013/08/02

 本日をもって前期高齢者と認定されました。「あとは好き勝手に生きろ」ありがたいことです。寛大な為政者に感謝。実はもうちょっと前から、思いっきり「好き勝手」をやらせていただいております。
 それにしても、自分にこんな年齢が用意されているなんて予想もしなかった。それに、なってみれば高齢者なんて何ちゅうこともない。ただの皺がよったガキだ。
 シルバー手帳に顔写真を貼れという指示なので、自分で写真をとったら、これがけっこう面白い。下につけておきます。

堀田善衛『橋上幻像』は実はまだ読み終わっていない。ひとつには昨日図書分館に行ったら、『父ボース』という書名が目に入って、それを借りてきて一気読みした。中村屋の黒光の娘と結婚したラース・ビハーリ・ボースの娘の哲子からの聞き書き。そのなかの写真も一枚添付しよう。母は哲子が幼いころに病死、敗戦前に父も病死、さらに兄は戦死。それでも果敢に生きてきたのは、その育ちの良さのおかげかもしれない。
 そういえば、東条英機の娘か孫かは国政選挙に立候補して落選したことがあるという。記者によると、なんとも快活で魅力的な女性だったとあった。なにか書き残していないかな。きっとあるだろう。ただし、名前を失念。知っているひとがあったら教えてください。

 Il y a un cadavre entre eux.(かれらの間に屍がある。──かれらはグルになって何かたくらんでいる)の話までしていた。
カダヴルということばを目にしたとき、頭の反対側ではカタコンベが浮かんでいた。語源的な関係があるのかないのか。
 
 『橋上幻像』は三つの話からなっている。
 そのひとつめは、あきらかに友人の加藤道夫がモデルと思われるなまなましい話。が、ヒロインはなんとも魅力的。そうだ、『エメランスの扉』や『善き人のためのソナタ』のマルティン・グデックにやらせたい。もちろんヒロインは日本人なんだけど、いまの日本の女優さんであの役をこなせるひとがいるかな? 若い頃の加藤治子ならぴったりすぎだが、それはいくらなんでも悪趣味だ。(夫をなくしたあとの新進女優の姿をさりげなく登場させている姪の加藤幸子の小説はなんといったか。)
 『広場の孤独』の続編を思わせる第一話「彼らのあいだの屍」は以下のように閉じられる。
「男と女は同時に立ち上がった。
 ホテルを出て、ふたたびY字形の橋をわたったとき、
(中断 その時浮かんだ風景は、あれはなんという題名だったか、ナチスの将校とその捕虜だったの女性とが橋をわったっていく、まさに道行きのラストシーン)
 その橋の中心に、彼の幻像はなかった。
「いないね、やっぱり、、、、」
「そう、あたしにも見えないわ、やはり、いなくなったのね」

 彼のかわりに、いまその橋の中心に立っているのは、多分、君自身、なのだ。

 ふたつ目はロシアで「私」の通訳をしたユダヤ系の若い女性の話。
 読んでいるうちに、「これとそっくりの小説を読んだことがある」。すぐに思いだした。中薗英介『裸者たちの国境』だ。そのヒロインのエステルと堀田善衛の通訳とがダブる。が、これもモデルがいるのかな? 最初に登場する(もとは日本人に思える)中国系ロシア人のスパイ小説作家もモデルがあるのなら知りたい。
 通訳とふたりで見る、ポーランドの教師が教え子を訪ねていくという映画は実在するのだろうか?
 が、その陰惨極まる「実話?」よりは、ずっと稚拙な粗さのめだつ中薗英介の小説のほうを選ぶ。理由はたぶん、小説家とその小説の距離感の違いだ。その設定に無理がありすぎるにしても(『裸者たちの国境』は同棲していた韓国からの不法滞在者を殺して日本を脱出した男と、その船で知り合った若くて華やかなユダヤアメリカ人がなにかの糸で導かれるようにしてポーランド強制収容所跡にたどりつく道行き)、そこに作者の呼吸のようなものがある。『橋上幻想』にはそれがない。

 第二話「それが鳥だとすれば」は以下のように閉じられる。
 右岸へ行けば、君は右岸の人であり、左岸へ行けば、君は左岸の人なのだ。だがそれは君であってしかも君ではない。
 しかしまた、橋の真ん中、継ぎ目などというものは、存在し同時に存在しない。しかししかし、そこに立つその存在し同時に存在しない幻像こそが、まさに真実の君なのだ。

 第三話は読みはじめたばかり。
 主人公はベトナム戦争からの脱走兵。かれは朝鮮戦争で孤児になったあと、アメリカの富豪の養子となるが、「自分自身を取り戻したい」とマクガバンという名を捨てただのジョーになる。
 これも実在の人物がいるのだろうが、なんだか読みつづける意欲が湧かない。
 話は以下のように始まり、
「ジンギス汗が男の家にあらわれたのは、正月早々のある日曜日のことだった。」
 以下のように終わる。
「彼が男の家にいたあいだ、男をも含めて、誰も彼をジンギス汗と口に出してよぶことはなかった。
 梅の花の散りかけた頃に、ジンギス汗は出て行った。
 裸の男を送り出したかの感があった。
 葬儀のときの、出棺、というに近い感があった。(そういえば、第一話は男と女が告別式で再会するところから始まっていた)
 男の家では、しばらくはテレヴィジョンだけが喋っていた。

 この生煮えの、いや骨格だけの『橋上幻像』がいつ書かれたのかはしらないが、これは堀田善衛の『深い河』なんだな、きっと。が、あまりにもペシミスティックにすぎる。「いま」がなさすぎるのだ。どんなに稚拙でもいい。おれは最後まで「いま」のままでいたい。
 遠藤周作『深い河』の単純さのほうが前期高齢者の教師には好ましい。たとえそれが、ほとんどおとぎ話にちかいとは思うにしても。

別件
「始まりのかわりに、原初の空虚のごときもの、物語が開始することを促すような力感にあふれた拒否がある」モーリス・ブランショ