「認識」できるのは部外者だけだ

 一昨日(29日?)は「暑い」という表現じゃ間に合わないもの凄い熱気。なにしろ窓を開けていると熱風が入ってくる。「こんなところにエアコンの排気装置はおいていないはずなんだが、、、。」それぐらいの異常な熱気だった。
 ついで昨日からは豪雨。天気予報で「激雨」という用語をはじめて見た。時間的にはそう長くなくてまさに激雨。うちの裏山は岩山(もともと石斧の産地)なので安心だが、場所によっては怖かったろう。
 天候のせいか、昨夜から急に落ち込んでいる。
 なにもする気にならない。たぶん、この夏ずっと頭に血が昇っていたから、それがすうっと下がってしまったんだな。まあ興奮しっぱなしだったから、ちょうどいいか。あのまま続いていたら死んじゃうよ。──てなわけで、たぶん「封書爆弾」はこれでいったんおさまります──ご迷惑をおかけしました。
 江藤淳小林秀雄』は30ページぐらいでやめた。面白くないんじゃない。いやホントはむちゃくちゃに面白いはず。でも、もう今更、小林秀雄富永太郎中原中也の青春に付き合うのはただ面倒くさいだけになっている自分に気づいた。(あと10年したらまた変わっているかもしれないけれど)。青春はもういい。人生だけでじゅうぶんアップアップしている。
 「江藤淳はなんでこんなものを書いたのかな?」そうか、自分の生活を成り立たせるためだ。ほかの理由はぜんぶ付け足し。そんな気持になった。
 『小林秀雄』を投げ出したあとひとつの理由は、伊藤武雄『満鉄に生きて』に書かれている圧倒的な「事実」のせいだ。ただ事実だけがあった。ムムム。だったら次は何を読めばいいんじゃ?
 いま考えていることは、来週は運動会の練習のために午前中授業だから午後は図書館に行って、たぶん郷土コーナーにある閲覧のみの甲斐巳八郎画集をひろげること。この人の絵には息子は永久にかなわない。(文章は息子のほうが数段上)ほかにもそういう全国的には知られていないすごい画家がたくさんいるんだろうな。
 夢野久作三男杉山参緑(杉山茂丸の孫)の詩集をひろげた。詩そのものよりは、数点載っている絵のほうに惹かれた。カラーコピーを旭川に送るから、興味のあるひとは請求してください。(そうか、一枚だけこれに貼り付けます)杉山参緑がなぜ「ことば」にこだわったのか分からない。すぐ上の兄は「父親のあとを継ぐ」ことにこだわったのだろうと推測している。あたっているかもしれない。「親子」というものが特別の意味をもっていた最後の世代だ。われわれ以後は完全に断絶してしまった。




 数日前の日経にもう10年以上前の発言になるのか、「アメリカではもうバブルが起きているのではないか?」という質問へのグリーンスパンの答えが載っていた。
「バブルかどうかは、はじけてみないと分からない。」
――ホンモノのリアリストだったんだ。 
 ときどきそういうホンモノのリアリストが歴史に登場する。たとえばマキャベリ。それを後世の人間はバケモノあつかいする。うん、バケモノなのかもしれんな。現実をありのままに見る人間なんて、めったにいないもの。かれはただモノゴトや人間をフツウに見ていたんだ。そのフツウに見るということの何という困難さ。
 グリーンスパンの発言に対して「無責任だ」と反応する人間のことをバブルと呼ぶ。現実とは生きものだ。ゴニョゴニョグニュグニュした生きものだ。その現実の表面だけでうごめいている人間たちはそういうバブル的人間だと考えておくほうが間違いが少ない。バブル的人間とは、現実を固定化させることによって自分は自由になろうとする人のことだ。生きものである以上、固定化した現実なぞあるはずもないのに。でも、大抵のひとは、(もちろん新米の前期高齢者もふくめて)生きている現実を正視するのを忌避する。そうしないと息がつけない。
 いま甲斐大策さんと草柳大蔵さんに教えられて、伊藤武雄『満鉄に生きて』を感心しながら読んでいる。現実の中にいながらリアルな目を持ち続けることができた優れた人間がやっぱりいるんだ。その本に関することは、あとでまた。その抜き出しコピーが間に合えば、これといっしょに郵送します。
 バン・ギムンという男は、典型的なバブル人間のひとり。なにひとつ責任を負わない軽さで浮き上がって国連事務総長になった。事務総長になっても何かをしたわけではない。もし何かをしようとしたら事務総長でいられなくなる。そういう理屈はわかっているからただプカプカ、ひょろひょろしてきた。もともと、そういう、「当事者にはならずにすむ」人間が事務総長に選ばれるのだろう。
 そのバブルが口をひらいた。翌日にはもうシャクメイをしたそうだけど。
 日本はそのシャクメイを受けて「これ以上モンダイにはしない」のだそうだ。ヘタだねぇ。徹底的にイビるチャンスだったのに。倍返しとまではいかなくても、1,5倍返しぐらいはして、すこしは相手をビビらせないさい。「国連事務総長としての資質に疑問を感じる。」なんでそういうチャンスをすぐ手放すの?「ナアナア」は何も生み出さない。(これは誰のことばだったかな? たしか、世界的テニスプレーヤー、それも女性だったように記憶している)
 歴史こそ典型的な現実だ。雑菌だらけのゴニョゴニョグチャグチャグニュグニュの渦中にある者にはその渦を認識なぞできようもない。歴史を認識した者(そういうことが可能だとして)は、自分を歴史のらち外においたことになる。自分を当事者ではなくした者だけが認識できる。そういう部外者は気楽だな。自由だな。なんの責任の持ちようがないんだから。
 部外者になる気のなかったひとは、だからただ、「歴史とは思い出だ」と切りすてて黙った。
 日本人にとっての近代史は、いまもなお膿や血が滲み出してくる現実そのものなのです。 あなた方にとって歴史はは、いつのまに他人事になったのですか?
 きわめて密接な関係のある隣国の歴史が他人事である者にとっては、自国の歴史も他人事にすぎない。いや、たぶんあの人たちは日本への甘えを捨てきれない。それは反日でさえない。
 恥を知りなさい。(「李承晩以外に本当の反日政治家はいなかった。他はたんなるポーズだ」と言った朴夫人なら、きっとそう言う。)
 言いたいことはそれだけだ。
 いつか、これからの若者たちには言いたい。「恥知らずにだけはなるな。」
 恥まみれになって生きようよ。ほかの生き方なんてどうせできやしない。
 それがたとえ、「憂きとやさし」(この「やさし」は「身がやせるほど恥ずかしい」という意味の万葉語だそうです)と思うような状態であっても、それに耐えている人間こそが「男のなかの男」なんだと思う。それに耐えてなおかつ「たのしむ」ユーモアを持つことを知的だと呼ぶのだと思っている。
 またサッカーのときと同じことしか思いつかないけれど、バン・ギムンあての書簡には一番上に国連事務総長に敬意を表してそのお言葉をかれの母国語で掲げよう。いやあ、韓国大使館まえに横断幕を張りだすという案は如何? 右翼ガンバレ。 ついでに、「しかるべき日本の機関の国旗の上に掲げたいから揮毫をハングルでお願いします」と国連事務総長に頼んでみては?
「歴史について正しい認識をもつことが必要だ。そうしてこそ他の国々から尊敬と信頼を受ける。」


    
別件                         
 来年から消費税をあげるかどうかでややこしい。
 「坐して死を待つ」わけにはいかない。かといって、「正面突破」はいかにも危うい。
だったら誰かの意見のように「年に1%ずつ」ちびちびあげてみる、という姑息な微温策はいかが?
 意外と、吉野家の牛丼も280円が290円に、290円が300円にと、「いいインフレ」が始まるかもしれませんことよ。


追記
 『満鉄に生きて』で伊藤武雄さんが言っていることを四捨五入して集約すると、「右翼や左翼はそれなりに中国に食い込んでいた。そのどちらでもない、いわゆる民主人士には中国という現実は見えないま
まだった」ということになりそうだ。
 べつに、それが伊藤さんの言いたいことなのではない。かれはただ、事実を語りたかっただけなのだが。