草柳大蔵『満鉄調査部』上巻ぬき出し

2013/09/15

 昨夜、草柳大蔵満鉄調査部』上巻を読み終えて、いったん休憩。
 はじめての名前が続々と出てくるので、途中で思い立って名前にマークをいれていくことにした。「あれ? 以前出てきた名前だ」。その度にマークを探して、「ああ、あの男か」。ついでに、さまざまな本からの引用があるので書名を抜き出していったら上巻だけで20冊以上になった。もちろんそれらの著作のほかの資料は満鉄関係だけでもその百倍ではまるっきりきくまい。そんなぐあいで遅々として進まない。が、とにかく面白い。
 いや、「おもしろい」などという言い方をするのはふさわしくない。ただ興奮している。
 書かれているのはいわゆる「歴史」なんてものじゃない。ただの事実のみ。個々の事実をどれだけ積み重ねても「歴史」にはならない。その、ならないことの尊さ、のようなものに気づかされた。
 なかに、金融、技術、事業の各分野で満鉄がアメリカと組もうとした事例がいくつも具体的に書かれている。まるっきり知らなかったけど、もともと創業期の満鉄の機関車も線路までもアメリカからの輸入だった。機関車にはカウ・ベルがついたままだったそうだ。
 が、それらの企図は日本の国内事情によってことどとく挫折する。
 あるいは中国側との(といってもその相手が錯綜していて、いちいち名前を覚えるのは諦めたほどだが)様々な交渉や駆け引き。その多くは経済、要するに金にからんだもろもろのことがら。
 もし、それらのうちの幾つかが実現していたら、、、。
 いくつもの、いくつもの「たら、れば、」があった。それらの「たら、れば」を全部ちゃらにした上に「歴史」がつくられる。
 江藤淳流に言うなら、カッコつきの「歴史」は感情をすべて無視した上にできあがる。が、もし、理性をとるか、感情をとるか、と迫られることがあったら、なんの迷いもなく感情をとる。理性をとりたい(と本当に思っている人がもしいたら)人はそうすればいい。しかし、オレは理性とは心中できない。
 晩年の勝海舟西郷隆盛にのめり込んだのも、だだっ子のようにわがままをし通した男のことが、口悔しいくらいにうらやましかったのだ。(いつか、どこかで、何とかして『城山』を聴く)きっとそうだ。
 小林秀雄は「歴史の必然というものをもっと怖ろしいものだと考へてゐる。僕は無智だから反省なぞしない。悧巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」という。が、掛け値なしの無智で馬鹿な男は、これからも、本当に必然だったのか、日本人は智恵を尽くしたのか、考えつづける。

 『満鉄調査部』上巻から「事実」を挙げだしたらきりがないので、その他のエピソード的な部分を抜き出す。自分にとって最大の関心事は相変わらず「人間」らしい。

1,『原野の思想』5末尾
 船にたとえていうと、「満鉄丸」は後藤(新平)船長の指揮の下で歴史の海に乗り出した。が、船長が二年ばかりで下船してしまうと、政党政治家や官僚や軍人がドヤドヤと乗船してきた。歴史の海が荒れるにつれ「満鉄丸」は軋んだ音を立て、右に左に揺れた。しかし、船は沈まなかった。次第に巨船化し歴史の中を進行していった。その動きを支えたものは、「満鉄丸」の乗組員の意識と行動だった。何人かが船から降り、また、降ろされもした。だが、誰もが「満鉄丸」への愛着を断ち切れなかった。
 満鉄の社員の意識と行動を支えたのは″原野の思想″であろうと思われる。あるものは調査活動を通じ、あるものは機関車を運転しながら、満州の人と土の中に溶けこんでいった。いかなければ、彼らの仕事はできなかった。
 昭和17年9月、第一次満鉄事件がおこり、調査部員・渡辺雄次は新京で検挙、投獄された。これは東条英機首相の指図による政治的弾圧であり、渡辺も無実の罪を着せられたのだが、出獄してきたのは昭和20年の春だった。出獄と同時に召集令が来た。陸軍二等兵である。同じ昭和6年入社の白井卓は、大連埠頭局に転勤する直前でもあったので、渡辺を自宅によんで、ささやかな別れの宴を催した。このとき、渡辺は白井の手をしっかりと握りしめ「なぁ白井、俺が大陸の良心だったことだけは信じてくれ」、それだけ言うと、あとは滂沱たる涙であった。白井が「わかった」とうなずくと、渡辺は獄中で愛読した岩波文庫の「吉田松陰書簡集」を「形見だ。読んでくれ」と手渡した。渡辺は興安嶺でソ連軍と戦闘中に戦死した。赤い夕陽の向こうから帰ってこなかった。妻と娘が残されたが、妻も亡くなり、養母に育てられた娘が成長して婚期を迎えた。
 戦後のある日、華燭を間近にひかえた娘が「父はどんな人間であったか、聞くようにと養母にいわれました」と、北條秀一をたずねた。北條は銀座の「らん月」に娘を招待すると「おまえさんのお父さんはスキ焼きの好きな男でね。俺が酒を飲んでいる間に、肉をみんな食ってしまうんだよ。今夜は、お父さんのぶんまで食べておくれよ」といった。それから彼の書いた「十河信二と大陸「という本を手渡した。
「この中に、おまえさんのお父さんがどんなに満州を愛していたか、書いてある。読んでくれればわかる」
 渡辺も白井も北條も″原野″でつながっている。その原野に青年たちを送り出した機構を語るまえに、その機構をつらぬいた後藤(新平)の「文装的武備論」を紹介しなければならない。
 
1,『原野の思想』6冒頭
 後藤新平が、ふだんよく使う言葉に「鯛の目と比目魚の目」というのがある。
 「比目魚の目を鯛の目にすることはできんよ。鯛の目はちゃんと両方についている。比目魚の目は頭の一方についている。それがおかしいからといって、比目魚の目を鯛の目のように両方に付け替えることはできない。・・・そうはいかんのだ。政治もこれが大切だ」
 この「鯛の目と比目魚の目」を、後藤は植民政策にも適用させるべきだといい、これを「生物学的政策論」と名づけている。つまり、宗主国の法律なり制度なりを植民地に押しつけてはいけないのであって、その土地の民俗や習慣をよく調査したうえ、それに適した政策を施すべきだという説である。
     〈 中略 〉
 徳富蘇峰は「後藤伯は、調査ということをまるで鞄かなにかのように、しょっちゅう携行している」と批評しているが、後藤が二言目には「調査」を口にするのは、自分が取り組んでいる対象が「鯛」なのか「比目魚」なのか、まずそれをたしかめようとしたからである。
     〈 中略 〉
 この実用的な「文装的武備論」は、やがて政治哲学に昇華してゆく。大正三年の「幸倶楽部」での講演が表現に過不足がない。
 「植民政策のことは、つまり文装的武備で、王道の旗を以て覇術を行う、こういうことが当世紀の植民政策であるということは免れぬので、それに対しては如何なる施設が必要であるかということは、帝国の植民政策の関係から起こるのであります」
 後藤には、「植民政策は覇術」という、はっきりした認識がある。後藤ばかりではない。「満鉄創立委員長」だった児玉源太郎もその立案書の中に「満鉄の事業は陽に鉄道経営の仮面を装い、陰に百般の施設を実行する」と明記しているのである。
 このおゆな表現を現代の倫理観で論じさることはきわめてたやすいことである。が、それでは政治支配(ガバーン)という概念の内容はいつまでたってもわからないであろう。

1,『原野の思想』8
 満鉄は不思議な会社である。「満鉄とはオレのことだ」と社員が思ってしまうような精神剤が包摂されている。社員が勝手に満鉄を″理念化″してしまうのだ。そこで、自分がつくった「理念としての満鉄」と実際の満鉄との間にギャップが生ずると、誰にたのまれもしないのに、「満鉄改造の議」を書いて呈上する人間が出てくる。なかでも村田熊三の「改造論」が読み物の中でも白眉だが、これはあとで紹介したい。
「総裁心持ち」は社員のみならず、雇員や満鉄に働く満州人の間にもひろがっていた。深瀬信千代が京大から満鉄に入って、運輸局の見習社員として実習を受けていたとき、鉄路の転轍機に触れようとした。すると、満州人の転轍手が飛んできて、「それ、だめです。総裁からのおあずかりものです」と顔色をかえて、深瀬にさわらせようとしなかった。深瀬はこの一事に満鉄の教育のものすごさを感じるとともに、「これはえらいところに就職した」と、心に衝撃を受けたと語っている。
  〈 中略 〉
 当時の青年社員にとって、満州は″永遠の白図″であったのではないかと思う。ある者はその白図の上に国家を描き、ある者は搾取なき経済社会を描こうとした。また、ある者は「民俗協和」の姿を置こうとした。この″白図精神″は、調査部たると地方部たると、はたまた鉄道部たるとを問わなかった。
 大正8年入社の有馬勝良は、一年先輩の森田茂之と諮り、満鉄の鉄道を全部はずして、当時(大正末期)の状勢にあわせて新たに鉄路と自動車道路を敷設し直してみようという案を練ったことがあると語っている。あるいはまた、森田と有馬は北満の水を南満に流して満州の気候を変えてみようと話しあったともいうが、このような発想が大真面目に語られるところに、満鉄の不思議さがあるだろう。

1,『原野の思想』13
 今西錦司は弟子たちに教えた。
「五つのデータで十の意味を求めようと思ったら、データの囁きが聞こえねばならん。その囁きが聞こえるかどうかはカンや。科学いうもんはその囁きにそそのかされて追跡するもんや。そこで先を読んで深入りして、また先が開けてゆく。そこが学問の面白さや」
2、熱砂の思想10
 当時(五四運動の次年大正9年4月)の(ニューヨーク事務所)駐在員としては、ニューヨーク商工会議所の勤める岡田尚とボストン大学社会学を教えている宮川教授が健在である。二人とも記憶は正確で、懐旧談はとめどもなく流れたが、二人に共通する認識が二つあった。
 第一は「満鉄はディベロップ(発展)はしたがエキスパンション(拡張)はしなかった」という表現である。言葉をかえていえば「成長はしたが侵略はしなかった」ということになろうか。
 第二は「満鉄の存在ないし政策は、ワシントンの議会筋やニューヨークの世論形成層には、かなり正しく理解されていた。が、それが一挙に崩れる時があった。それは軍部が″皇軍″という言葉を使い、新聞の活字にも謳われるようになった時で、″皇軍″以後は、われわれがどんなに説明に汗をかいてもアメリカ人の反応はつめたかった」という話である。

2、熱砂の思想11
 (調査課長)石川(鉄雄)の第二の仕事は、調査課の機能の拡大であった。これまで説明してきたように、満鉄を取り巻く中国の状勢は″混沌(カオス)″が渦巻いている。その渦の中から満州に影響を与えるような因子を見つける、あるいは放っておくとカタストローフに達するような要因を探し出す。これは石川の危機感となっている。さらに革命後のロシアの状況も新しい調査に入ってきている。
  〈 中略 〉
 伊藤(武雄)は取るものも取りあえず南下する。これを契機として、彼は北京事務所を根城に中国各地を歩くが、その過程で、彼の研究の対象が像を結んでゆく。著書「満鉄に生きて」の中で、次のように語っている。
 「軍閥の抗争、腐敗官僚の政争といった一連の中国社会の解体現象も、帝国主義諸国の借款競争に起因している。解体過程の現象の一方の柱に軍閥戦争、他方に学生運動、労働運動がある。これらの社会運動は解体過程のなかに生まれ、そだったものであるが、同時に解体過程を終局に導くものだ。明日の中国において如何なる地位を社会運動が占めるか、私の研究の関心はここにあったのです」
  〈 中略 〉
 今日でも言えることだが、海外で情報を集める場合、「なるべく日本人にはあわないこと」を前提とした伊藤の態度が正しかったわけである。情報が日本人社会に入ると、日本人的解釈の幅が増幅され、「事実」が埋没してしまうことがある。

2、熱砂の思想13
 昭和19年、熊谷康(陸軍武官室→満鉄→特務機関政務部→満鉄)は参謀の辻政信中佐と謀り、フランス租界のビルの中で「撤兵」という雑誌を編集し、発行した。この雑誌はまさに飛ぶように売れたが、熊谷はたちまち憲兵に逮捕され、監獄に叩きこまれた。「中佐参謀が撤兵論を述べているのだから罪にはなるまいと思った」と抗議すると、「参謀と憲兵は違うわい」と一喝され、シラミだらけになっているところを辻中佐に請け出された。
 ところが、グループの主宰者である小川愛次郎も辻政信と「撤兵」について意見の一致を見、小川は辻の懇請で南京総司令部の岡村寧次大将を説得に出むいた。岡村も「そろそろ撤兵の時機だと思う」という。参謀たちもほぼ同じ意見だった。軍は、ただ、撤兵の方法がわからないのだ、という。・・・軍は、撤兵の意志はあるが、背後に攻撃を受けることをおそれている。小川は、「問題はそこだ。誠意を尽くして話せば、中国人という民族は絶対に背後から射たぬ民族なのだ。それが″中国の心″なのだ」と力説した。が、軍は信じなかった。結局、岡村大将が東京に飛び、上海でまとまりかけている「撤兵論」のあらましを東条に伝えることになった。
 数日後、岡村は肩を落として帰ってきた。東条に話したところ「バカも休み休みいえ」と頭ごなしに怒鳴られたという。