音楽談義

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 ショスタコービッチの5番か。
 たぶん聴いたことがあるんだろうけど、浮かんでこない。
 じつは、シンフォニーを聴くということじたいが滅多にない。
 若い頃は少しは聴いたが、いまは室内楽一本。
 シンフォニーは音の数が多すぎて、オレの耳では対応できない。それに、聴いていくとき、なんだか自分が世界と向き合っているようで、精神衛生上はなはだ良くない。
 理屈を言えばそういうことなんだろうが、たぶん、自分が持っていかれそうな感覚になるときがあるのがいやなんだろうな。
 室内楽は自分をそのままそこにいさせてくれる。
 若い頃、福岡の繁華街のすぐ裏の一日中陽がささない木造アパートで暮らしていたことがある。
 仕事帰りに映画を見たいと思ったのが動機だったが、暮らしだしてすぐ、アパートのすぐそばの会議場みたいなところで、毎月「モーツァルト・アンサンブル」の演奏会が開かれているのを知った。モーツァルト全曲の途中からと、引き続きベートーヴェン全曲を聞き終わったところで門司に引っ越した。ヘタクソだったし、残響ゼロみたいな会場で「演奏家にとってはつらい状況です。」だが、こっちにとっては一台ずつの音が明瞭に聴き取れて、幸運だった。
 岸恵子の最初の結婚(二回目があるのかどうかは知らないが)相手は貴族の家系だったらしい。その家には世界で活躍している音楽家がときどき集まり、室内楽を楽しんでいたという。大舞台での演奏は生活用、人に聴かせるためでなく自分たちで楽しむのが室内楽。大雑把にいえばそういうことなんだろう。その室内楽をそばでお相伴させてもらう。オレにとっての音楽はそういう役割。最近はほとんど夜中にこっそり聴くから、なおさらシンフォニーとは縁遠くなった。例外はセザール・フランクのみ。この人の音楽は別格なのです。これまでに音楽を聴いた時間の半分以上はフランクだと思う。そのなかでまたいちばん多く聴いたのはヴァイオリン・ソナタ。いちばん聴いた演奏家は加藤知子。いままでに千回聴いているとすると、一回あたりのCD代は2円数十銭。なんという安さ。
 昼なお暗い部屋だったし、独身だったということもあって、木造アパート時代は、昼間もよく聴いた。いちばん集中して聴いた時代だ。当時聴いていたのはフランクの他は、バッハのヴァイオリンとチェロとピアノ。それにベートーベンの弦楽四重奏
 いま49枚のCDを選んでウォークマンに入れかけているが、タチアナ・ニコライエワのバッハとベートーベンの弦楽四重奏15番は欠かせない。
 ベートーベンの室内楽に目覚めたのは先に書いたアンサンブルのお陰。ただしいまは最後年のもののみを聴く。
 タチアナ・ニコライエワにはやはり木造アパートそばの小さなホールにたまたま入って出会った。彼女がたびたび福岡に来ていたので不思議に思って、そのお弟子さんだという児玉桃の事務所あてに、理由を知りたいんだけどと手紙を出したことがある。なにか週刊誌的な事情でもあったのかと思ったからだが、「わたしにもわかりません」という簡潔だが親切な返事がきた。「日本が大好きでいらっしゃったから、としか言えません。」その日本が大好きになった事情を知りたかったんだけど。「ただ、福岡にはたびたび先生を呼ぶエージェントがありました。いまはもうないようです。」いま活動しているエージェントによると「倒産した」とのことだった。良心的すぎたんだな。ニコライエワさんのコンサートも、オレがふらっと入ったぐらいだからかなり安かったんだと思う。たぶん演奏者も意気に感じてほとんど旅費と宿泊費のみのロハで来てくれていたにちがいない。曲目は毎回バッハの「インヴェンションとシンフォニア」。300〜400人程度のホールの聴衆もたぶん毎回ほとんど変わっていなかったんじゃなかろうか。
オレは幸運な男なんだ。
 ニコライエワさんがある場所で面接を受けたとき「ベートーヴェンなら全曲暗譜している」と言って、相手を驚かせたという逸話がある。そのベートーヴェン全曲集を偶然見つけた。それを聴いていてびっくりしたのは、「月光」だのなんだのの有名な4曲が鳴り出すと「こりゃ演歌じゃないか」と感じたこと。バッハはあくまで端正な演奏なのに対してベートーヴェンは見事なまでに自由そのもの。ただみんながよく知っている曲はみんなが知っている風に演奏していた。そういう人だったんだな。惜しいことにもう亡くなった。
 自分は曲の題名を覚えられない。ましてや番号など「なんのこっちゃ?」。だけど、ある種の曲は聴いているとこちらの心の形が前のときと同じになる。それで気づく。「これは以前にも聴いたことがある。」ニコライエワさんのバッハはそういう演奏だった。

 フランクは幕末のひと。
 なんでバッハからとつぜん幕末なんだ?と思うかも知れないけど、その途中の音楽には、音楽以外のものが含まれすぎている。それが音を聴くとき邪魔になる。バッハでさえも相当に含まれている。たぶんそれがヨーロッパの宿命なんだ。
 前にも書いたが、小林秀雄がはじめてフランクを(たぶん河上徹太郎からレコードを借りて)聴いたとき、吐き気を催して途中で庭に駆け下りたという。
 なぜか?
 かれは、西洋音楽には意味があると思いこんでいたんだ。西洋音楽を聴くということは意味を理解することだと思っていたのかもしれない。それなのにただ「音楽」だけしかないものと遭遇してしまった。そのレコードを貸し与えた河上徹太郎はたんなる友人という存在ではない。それを超えた何かだ。
 いまは、フランク以後、を、現代音楽だと思っている。
 そのなかで、ベルクを知ったのはまだ10年も経たないころ。
 きっかけは、また冬休みになったら会いに行きたいと思っている池田先生の文章に「ビューヒナーのヴォイツェクは面白いですよ」とあったこと。岩波文庫でなんだかよく分からないまま読んだあと、たまたま歌劇の「ヴォツェック」を見てびっくりした。あらすじもだが音楽がすごい。それまでアルバン・ベルクは、弦楽四重奏団に冠せられた名前でしか知らなかった。
 今度の「49枚のCD」にはベルクが二枚入っている。
 そのベルク以降、誰がいるのだろうと思っていたが、今回の一ヶ月以上にわたる「のぼせ」期間に、ウラジミール・マルティノフに出会った。1946年生まれとあるから、われわれとまさに同世代。聴いた曲は「come in」一曲。なにやら長大な曲の短縮バージョンらしい。
 が、やっと「今」にたどり着けてほっとしている。フランクにのめり込んだ30代前半からほぼ30年。ふむ。長い長い旅路でしたのう。
 フランクからマルティノフまではほぼ一直線なのに、一世紀半かかっている。科学技術より音楽のほうが時間を欲する。欲するし、それが正しいと感じる。

 バッハ、フランク、ベルク、マルティノフの音楽の共通点は、聴いていて「終わってほしくない」と感じることだ。そう感じるものを聴きたくなる。他には何もない。(だから、これらはぜんぶ個人的なことでしかない。)その感情に理屈をつけるなら、たぶん「時間」を聴いているんだと思う。が、それはもうまったくの理屈にすぎない。ただ、聴きたいだけ。

 名前を覚えていないロシアの指揮者が、「チャイコフスキーの素晴らしさは、ただあなたにだけ語りかけてくることです。」と言っていた。いつか、チャイコフスキーショパンばかり聴きだすときが来るのかもしれない、とも思う。すべては行き当たりばったり。
 「49枚のCD」には、グレン・グールドが演奏しているギボンもある。
 「ギボンはこれをただ自分のためだけに作曲したんだと思うよ」とピアノを弾きながら言ったときのグールドはじつに幸せそうだった。

 本日の音楽談義を終わります。

 追伸
 庄司さやかが「私のたからもの」と呼んでいたというLPがCD化されているのを知って注文していたのが届いた。その夜は、「ジネット・ヌヴーと深夜の密会」のつもりだったのにちょっと違った。
 LPの音をただそのままCDにしただけなので、まず針を置いた音から始まる代物なんだが、ヴァイオリンの前の楽壇の音にびっくりした。
 シンフォニーはめったに聴かない理由をいくつか書いた。が、あとひとつ、ウィーン・フィルに代表される楽団の音があまりにきれいすぎて気持が悪い。すべての音が平準化を目指している。もしあの人たちの目標が完全に達成されたら、それはシンセサイザーのような音になってしまうんじゃないかとさえ思う。
 それに、まえに立っている指揮者が邪魔だ。あの人はなにひとつ音を出していない。
全体主義国家じゃないんだ。練習のときは前で指導しても、本番のときは黒子になれ。」
 ところが、イヤホンからきこえてくる音にはすこしもデジタル的なところがない。それどころか、演奏しているおじさんたちの姿が暗闇のなかで彷彿としてくる。(「彷彿」には、「ありありと」の意味と、「ぼんやりと」の意味のふたつがあるそうです)表情まで見えそうな気がする。
 そこにヌヴーの、一台の楽器から出ているのだとはとても思えない実に多彩な音色のヴァイオリンが加わる。音色と書いたが、色だけではない、じつにさまざまな味をもった音だ。
 庄司さやかはその音楽を、「人間を高みにのぼらせてくれる」と語っているという。しかし、自分には、これ以上ない人間くさい音楽にきこえた。でも、そのふたつのことはべつべつのことではないのかもしれない。