草柳大蔵『満鉄調査部』下巻ぬきだし

草柳大蔵満鉄調査部』読了

 『満鉄調査部』をよみ終えて2週間ほど。その間、もちろん他のものを読んだりはしていたのだけれど、なんだかボォーッとしていた。
 また自分の中の組成が変わった気がする。どう変わったのかはわからないけど、いわばその内部の変化に順応するための雌伏期間が必要だった。
 あのころ日本にも中国にも「国家意志」がどこにあったのかわからない。日本は維新政府が健在だった短い期間を除けばもともとそういう国だ。(この国の居心地のよさはそこに起因する)清朝瓦解後の中国はとてもひとつの国ではなかった。その渦中で日本人たちは呆れるほど真剣に、てんでんバラバラの方向に動きつづけた。筆者はそれを次のように評する。
「歴史の歩みは、まるで迷路遊びに似ている。希望した進行方向をとれぬ分子が許された経路を進むと、進んだあとが道になってしまう。」
 「歴史はジグザグにしか進まない」とヴァン・デル・ポストは言ったが、それにしても遠くを見渡し得るヴァン・デル・ポストにとっては、進行方向に一定の目途があった。だからジグザグに見えたのだ。だがわれわれの国はジクザグにも進まなかった。
 もう名前を忘れたが、あるシンポジウムで「人工生命にもっとも近づいている」と紹介された学者は生命の起源についての質問に対して、「その時々のできごとは偶発的だ。しかしあとから振り返ればその必然性が見えてくる」と自信たっぷりに答えていた。歴史もまたそういうものか。いや、歴史を「あとから振り返る」ことはできない。なぜならいつも「いま」なのだ。
 小林秀雄ヴァレリーを引用して「歴史は海のようなものだ」という。「人間はそこを泳いでいるだけだ」
 目的地なぞもともとない。人間はただ「溺れない」ことに力を尽くす。
 が、目的地はあるとき突然姿を現す。その陸地がどこのどんな場所かなぞ人間は考えない。「助かった!」
 満鉄(に限るまいが)の成員たちの多くには、その陸地は想像がついていたように思える。「決着は敗戦という形でしか現れまい」が、それが、いつ、どんな形で現れるのかまで想像できた人は少ないだろう。彼らはただ泳ぐしかなかった。そして彼らの多くは泳ぎきっていったん上陸し、またすぐ次の波にさらわれていった。

 サンソムは、「日本の軍事生産力がピークを迎えたのは開戦から2年たった時期だった」と言う。「日本が戦争準備をしていたことは確かだが、それがどの程度本気だったのかは疑問だ。」
 日本は「あとじさり」しながら開戦に突き進んだ。
 そのときでも日本には、どこかアメリカへの甘えがあったのではないか? その「甘えの構造」は、対象こそ違え、いまもつづいている。
 いま感じているのはそういうことだ。


 『満鉄調査部』下巻の一部を、脈絡を気にしないで、ばらばらに書きぬきます。

満鉄調査部』第3部
 「抗争の思想」1、
 昭和3年南京事件後の幣原喜重郎
 どこの国でも、人間と同じように、ひとつの心臓をもっている。日本は東京、イギリスはロンドン、アメリカはニューヨークが心臓で、ここを叩かれたら全国的にマヒ状態になる。ところが、中国という国は無数の心臓を持っているから、ひとつくらい叩いても、中国の鼓動は止まらない。もし中国の息の根を止めようとするなら、次から次へと心臓を叩かねばならず、いつになったら目的を達することができるか、わかったものではない、、、、。
 「いたずらな同盟は味方と同時に敵をつくる」

 「抗争の思想」2
 昭和4年八月満鉄総裁山本条太郎 大阪経済界における講演
 「今日の日本経済の1億5千万〜2億円の輸入超過は、満州において大体に補完することができるという確信を得た」(註 生糸ではなく工業製品を)
 1,鉄鋼一貫作業。 2,肥料。 3,石炭液化とオイル・シェールの開発。
  
「斉藤博は、のちに駐米大使になり、太平洋戦争を回避しようと文字通り骨身を削る努力を重ね、憔悴のあまり客死した。アメリカは斉藤の真摯な人柄に感動し、その柩を軍艦「アストリア」号に載せて横須賀に届けた。」

「抗争の思想」6
 「満蒙放棄論」は、大正の初期から、折りにふれ事につけて、起こっていた。
 たとえば、明治大学教授の田中貢などもそのひとりで、「日本の政治力ではとてももちきれないであろう」との見解を出している。田中貢は、大正12年サンフランシスコで排日運動が起こったとき、上杉慎吉東大教授などが「起ちて一戦におよぶべし」と叫んだのに対して、「上杉さんは日米間に太平洋があるのをご存じないのであろうか」と嘲笑した人物である。

「抗争の思想」7
 いったん「排貨」の声があがると、日本品の売れ行きはハタと止まり、やがて中国人の店先からも問屋の倉庫からも日本品は姿を消してしまう。日本の輸入商や小売業はネをあげ、店仕舞いをする音がバタバタと聞こえはじめる。すると、いつの間にか、姿を消していた日本品が以前の三倍から五倍の値札をつけてあらわれる。この繰り返しで、「排貨」のたびに、日本品を扱う中国商人は肥え太り、日本人商店は「閉店」の貼り紙を出す。

 「1974年にアメリカの社会学者テッド・ロバート・ガーが発表したように、政治的社会の安定度は中間層の動向如何にかかっている。」

「抗争の思想」8
 「満州事変は軍部の独走」とするのが現代史の定説になっているが、いかに軍部が独走しようとしても、軍部以外の社会が軍部の選択を心情的にせよ支持しなければ、独走の距離は短いはずである。日本人が一定の環境の下では瞬間的に価値観を共有することは、「文明開化」から「ジャパン・インク」(JAPAN INC.)まで証明済みの事実であろう。と同時に、この心理の共通化作用は「満州事変は軍部の独走」から「高度成長は独占資本の志向」まで、その語り口は、つねに″単独犯人″を作ることによって、歴史の埋葬をつづけて来たのである。

「抗争の思想」12
 満鉄には・・・クイーンズ・イングリッシュを操る社員がゴロゴロしていた。・・・英文係の主任早川富之助は満鉄に入社する前、ハリウッドに住み、日本が輸入する映画の日本語のスーパーインポーズを入れていたという。昭和10年、大学を卒業したばかりのIBMのワトソン二世が満州旅行にやって来たとき、早川は社命で約一ヶ月の旅行につきそっている。当時、IBMのパンチカード・システムによる会計統計機を使っていたのは、満鉄、大蔵省、第一生命の三者のみであった。このとき早川に長男が産まれたが、彼はそれを秘してワトソンを案内し、いよいよ別れ際に打ちあけたところ、二世はひどく感激してその場で記念品を買って贈ったが、昭和21年に来日したとき、八方手をつくして早川を捜し出し、まだ12才であった早川の息子に「ぜひIBMに来るように」と頼んだ。息子は長じて後、IBMを受けて入社、苛烈な研修期間もパスして現在に至っている。

 昭和4年10月「太平洋問題調査会第三回総会」(奈良・京都/第1回・第2回はホノルル)。理事長新渡戸稲造、日本側委員河上丈太郎、高石新五郎、前田多聞、高木八尺、高柳賢三、?山政道など。アメリカ側委員ウォルター・ヤングなど、中国代表徐淑希燕京大学教授の日本攻撃への反論が当日朝食時に「午前九時から許す」と決定された。
 松岡洋右はその場で「オーケー」と返事をし、無原稿で会議場にのぞんでいる。
 「中国の民族主義はともかくとして、北清事変後も、もし日露戦争により日本が国力を賭してロシアの侵略を排除しなかったならば、満州は早くロシアの領土になっていただろう」
 日清戦争の結果得た遼東半島南満州の権益を露仏独の「三国干渉」のため中国にかえすことになったが、李鴻章はこの交渉を右手でしながら左手ではロバノフとの間に「露支秘密同盟条約」を結んでいた。このためロシアが南下して日露戦争の原因となったのだが、ワシントン会議では中国はこの密約の原文を提出するように要求されたのに、摘要を登録するにとどめた。日露戦争のあと、小村外相は中国と満州に関する善後親善条約を結んだが、この時も「露支秘密同盟条約」の存在を知らないでいたのだ。諸君、試みに思え、もし、日本が日露戦争中、あるいは戦争末期において、この「露支密約」があることを知っていたら、日本は勝利に乗じて全満州の割譲を要求したろうし、世界各国もまたそれを当然としたであろう。もし、然りとすれば、吾人は今日この会議において論ずべき満州問題なるものを持ち合わせていなかったでありましょう・・・。

「抗争の思想」14
 世界恐慌の波浪
 昭和4年10月のニューヨーク株式大暴落から昭和6年に至るまで、大衆は「露命」という言葉の真実味を味わった。
     昭和元年 昭和6年
工業生産 100   73.9
企業利潤  100   66.0
輸出額   100   55.7
卸売物価  100   64.7
国民所得  100   69.7 

満鉄の益金額
 昭和元年 昭和4年 昭和5年 昭和6年
  100   133   60.1  36.5
 
「抗争の思想」18
 松花江を臨む吉林市には。建国以前から税務署があって、吉林省の奥地の樹海から木材を伐採して、それを筏に君で流す木材業者から税金を徴収していた。その税務署は建国と同時に満州国に接収され、内地から赴任してきた大蔵官僚がその署長となった。建国前においては、筏に組まれた木材の数をかぞえ、その本数によって税金を徴収していたのであって、木材の大小長短は敢えて問うところではなかった。日系官吏の署長は、これを不合理として、吏員を増員して木材の才量を測り、石数によって課税することに改めた。すると、両三年のうちに、いままで青々と茂っていた吉林附近の山々は伐採せられて丸坊主となり、水害の恐れすら生ずるに至った。従来伐採業者は、太い木も細い木も、払い下げ料は均一であるから、森林の奥深く分け入り、できるだけ大きい樹を見つけてこれを伐採し、江岸に運搬していたのであるが、石数によって課税せられるということになれば、大木を求めて遠くへ行く要はない。吉林の近くに生えている樹を大小に頓着なく伐採して筏に組んだほうが利益であるから、吉林附近の山々の樹は、みるみるうちに伐採業者に伐り尽くされて、禿げ山となり了ったのである。(もと京大教授瀧政二郎)

 満州事変を惹き起こしたのは、たしかに板垣大佐と石原中佐である。この二人の″独走″であったことは、さまざまな資料が語っている。しかし、たとえば銃が引き金だけで出来ていないと同様に、歴史上の事件はそれ自身の論理で終結しうるものでもあるまい。
     
「抗争の思想」21
 歴史は「事実」の構成体である。満州事変から満州建国まで。「事実」はすべて現地製である。この製造工程は、満州に関するほかの選択肢の介入を許さぬものであった。昭和9年に・・・吉田茂在英全権大使が「満鉄なんて、その上に松岡洋右を載せて、中国に返してしまった方がよいと思わんかね」と言った話は前に紹介したが、この考え方は吉田茂一流の皮肉から出たものではなく、平島敏夫(「満州建国側面史」)もそれを経験している。・・・「君たちは井の中の蛙なんだよ。満蒙を放棄せよということではありませんよ。満蒙を諸外国と一緒に開発した方が賢明だということです。」(某著名外交官)
 平島が紹介したような「満蒙国際管理論」は、議論としては「事実」の傍を走り続けていたのである。ただ、それを「事実」にかえる「権力」とめぐりあわなかったし、また、議論を事実化する「権力」を創出する努力もしなかった。

「抗争の思想」23
 満州青年同盟を主体とする「民族協和にもとづく満蒙新国家の建設」は、満州事変勃発から満州国誕生まで、わずか七ヶ月間である。いわば「七ヶ月の王道楽土」であるが、この思想源流は、戦後の一部の史家や外交専門家がいうように、右翼的思想の持ち主の自己陶酔からくるロマンティシズムではなく、古くからの満州の″文人″の発想にあったともいえると思う。歴史にも風化作用は伴うもので、権力の通過した道のみを歴史的事実と見ることは、人間の思想や心情をあまりにも単純化する倨傲の態度といえよう。
 ・・・岩間徳也、松岡洋右安岡正篤などは「もし、王永江が生きていたら満州事変は起こらなかったろう」と述懐している。

昭和7年2月石原莞爾
 「独立国家になる以上、これは都督制とか何とかはやるべきではない。──中略──付属地関東州も全部返還してしまって関東庁長官も失業ですな。そして本当に一緒になってやるのでなければならない。日本の機関は最小限度に縮小し、できる新国家そのものに日本も入り、支那人も区別なく入っていくのがよろしいと思う。それができなければ満蒙新国家もなにもないと思います。」
 「私が新国家に職を奉ずるならば、新国家の連隊長に任命されるので、それでなければ結局、日本のものにするか支那のものにするかです。──中略──なくていい融和的なものは置かぬ。関東庁長官は絶対に失業。」
 「新国家に活動したい方は、その国家に国籍を移すのですね」(朝日新聞社企画「満州建設経済研究会」)


満鉄調査部』第四部抜き書き

1,昭和8年12月永雄策郎、帝国鉄道協会での講演
 九月十八日事件に対しましては、満鉄会社幹部は絶対反対でありました。それにもかかわらず、わが忠勇なる軍隊の独断専行によって事件は成功したのであります。しかるに、ひとたび九月十八日事件が成功する目鼻がつくと、満鉄会社幹部──幣原外交の逐行者たる満鉄会社幹部は、打って変わって軍部に相槌を打って、忠勤をぬきんでるという態度になった。この頃は転向派が大流行であります。転向派は共産党のみに特殊ではありません。すくなくとも満鉄会社幹部は転向派の尤もなるものであります。
 同事件に対する伊藤武雄の(戦後の)見方
 ──満州事変が起こったときの満鉄は軍に協力的ではなかった。ところが事態が進展して、いよいよ満州国ができそうな情勢が展開されると、社員の間に「いつまでもツンボ桟敷におかれていてもよいのだろうか」というそこはかとない不安感が漂いはじめる。この空気をうまくつかんだのが宮崎正義で、彼はまず社員会の中に経済調査会の前身のような機構をつくり、これを率いて自発的に軍に協力しようとした。が、彼は企画力はあったが人望に欠けるところがあり、賛同者をえられなかったので、理事の十河信二を担いで軍の了解をとりつけ、参謀長から満鉄あてへの手紙を出させた。

3,昭和8年10月28日満鉄社員会宣言文(戦後、三奈木村長になった加藤新吉起草)
 1,満鉄は、明治大帝の御遺産にして、国民血肉の結晶なり。国策遂行の使命を帯びて茲に二十七年、今や東亜の危機に際し其の責務いよいよ重大を加え、国民の期待さらにこれに繋がる。我等挺身、事に当らざるべからず。
 2,満州の建設は大業なり。満鉄は満州開発の根幹なり。これが改変はよろしく白日の下、国民と共にこれを議すべし。濫りに斧鉄を弄して大事を怠る如き、我等断じてこれを採らず。

9,昭和17年に、満鉄調査部東条英機によって壊滅的な打撃を受ける。全くの事実無根で検挙され、投獄される人が陸続とあらわれる。東条のこの弾圧の底には、彼自身の政治性や性格が作用したというよりも、「事実をしてかたらしめる」という作業に権力者共通の恐怖心を駆り立てられたからではないか。

 下條英男(満鉄事件に連座)、中楯、守隋一(矢内原忠雄の弟子。のち獄死)による「統一業務連絡会議」
 三井、三菱は約500軒の糧桟(リャンザン流通商)を支配してゐると云はれてゐる。彼等は土着資本から物を買ひ、土着資本は彼等から雑貨を買ふ。糧桟は公定価格で買ったものをより高く売り、特別利潤を得る。斯く、買弁と日本独占資本とに剰余が流れ込み、それらは花柳界に集まり、二億何千円かになってゐる。農民と苦力の必需品を確保する生産の編成替えやる必要がある。
 兎に角日本との物資交流関係を整調しなければならない。苦力については、極く僅かの必需品が労働力の再生産に影響する。故に労賃の値上を必要とし、それは石炭、鉄などの値上となる。満化などは労働者の移動率が年200%をなしてゐる。これは能率の低下を来すものである。満炭の出炭率なども、一人当たりは減少してゐる。斯くの如きインフレの集中的矛盾を解決するのには農民苦力等の最小の必需品を確保させねばならない。

10,
 昭和16年満州経済研究年報」(最後の年報)
 「農民の生活必需品を糧桟と癒着した日本商社の輸出機構から解放して、直接、彼らの手にわたるように仕組みをかえる」とともに「満州重工業の生産力を軍需にばかりまわさず、農業の近代化にふりむければ、労働も農作物も余剰を生じるから、農民の生活は安定して生産背もあがり、同時に満州重工業も安定的で廉価な労働力を獲得できるであろう」

 昭和17年綜合調査への北支調査所からの疑問。
 この種の調査課題は、本来、国家機関が扱うべき課題であり、国家機関が遂行できぬから民間機関である満鉄調査組織が代行するというのは矛盾している。ましてや、政策担当者が、調査に必要な資料を安んじて提示しない状態の下では、この種調査を満鉄調査部が遂行するには限界がある。現地で調査にあたる場合には、身分を軍嘱託としないかぎり必要資料は手に入らない。しかも、軍は満鉄が提示する戦時経済調査を従来のような方向では望んでいない。とすれば、調査を完遂するにあたっては、身分は軍嘱託でなければならず、そのような身分を獲得するためには、軍の要求である現実的な具体的政策に結びつけて問題を提起し、この間を糊塗しなければならない。

 昭和16年8月「新情勢の日本政治経済に及ぼす影響」調査活動をはじめるにあたっての尾崎秀実の「前提条件」。
前提一。
イ、日本は対ソ戦に備え、満州に増強、また南方問題に対処するため仏印に進駐、南北とも万全の準備を整う。
ロ、英米および第三国の経済圧迫は資産凍結令を機として益々強化、タイ以北共栄圏以外との通商交易は事実上ほとんど全滅すべき情勢にあり。
ハ、準備段階期は少なくとも八月末まで、あるいはそれ以後まで継続するものとして考慮し、勃発後については戦禍による破壊を除外して影響を考慮すること。
ニ、日支事変は当然継続せられ蒋政権と英米ソとの連繋も強化せらるべきものと覚悟すべく、したがって、八路軍・国民党の活動も活発化し、満州においても治安に関する顧慮をますます必要とするものと想定す。
前提二。
イ、新情勢下の動員規模は四百五十万人と想定す。
ロ、満ソ国境に二百五十万。第一次動員百万人、近く行われる第二次動員百五十万人とす。支那事変ならびに南方作戦に二百万人と想定す。  
 
同9月26日付の報告。
 新情勢下では石油の輸入は全く困難視される。この場合、日本戦時経済力は保有量のいかんにかかる。軍保有量は不明とすれば、民需保有量は現在百五十万キロリットルと推定され、四、五か月を維持するにすぎない。軍保有量については、米のハル長官によれば臨戦体制下の日本の石油保有量は一か年半〜二か年と推定される。
 結論 「軍が保有する資源の範囲内で戦うべく、民需に食い込んではならない」
 10月14日夕刻。
「どうしても、アメリカ相手の戦争を食い止めねばダメだ。・・・かといって、日本の内部には食い止める力は出てこない。そこで、外部からの力を借り、内部からの力と呼応させるしかない。・・・アメリカとの戦争を回避しながら、日中戦争をいかに早く収拾させるか」
 三輪武は、「満鉄だって同じことを考えているんですよ」という言葉を胸の中でつぶやいていた。その翌日、尾崎秀実は「スパイ容疑」で逮捕された。
11,
 昭和16年7月70万の兵力を集めての関東軍特別演習の前後、「独ソ戦の見通しを遠慮なしに述べよ」という満鉄首脳に対しての北方調査室具島健三郎の意見。
 ドイツ軍は緒戦では勝っているが、石油の補給が困難だ(彼のもつ資料では、千五百㎞の全線にわたって機動化部隊を動かせば、ドイツの油は四かヶ月半で枯渇する)から、コーカサス地方バクー油田を占領しないかぎり勝利を収めることはできない。赤軍フランス軍と違って、装備も士気も優秀だから、コーカサスの防衛は強固なものになろう。したがって、独ソ戦は二ヶ月どころか、長期戦は必至と見るべきだ。
 ※『ドイツ尾石油危機と昭和17年度における独ソ戦の見通し』という報告書を提出したあと、具島は関東軍憲兵司令部によって逮捕。
 平舘利雄の「ソ連不敗論」
 ドイツ軍はルーマニアの石油だけでは絶対にやってゆけない。問題はコーカサスバクー油田を攻略しうるかどうかだが、コーカサスに攻め込むには山峡(山あい)を通らねばならないので、その行動中にソ連軍の集中攻撃を受け、停滞している間に冬将軍に見舞われるだろう。したがって、ドイツ軍はモスクワの手前で立ち停まる。
 
 満鉄社員検挙事件によって没収もしくは焼却された8月5日(一説では9月5日)「日米戦力比較」報告の要点。
・石油の供給不足がおこる。ボルネオの油田を領有したにしてもアメリカとは比較にならない。
満州重工業の生産財が軍需に食われ、レールや部品の補修が不可能になるので、輸送能力を維持しえない。(※関演の際、輸送能力の関係で日本軍はロシアに進攻できないと結論)
・撫順炭坑のうち、とくに粘結炭を出す龍鳳炭坑の生産力が低下しつつあり、日米戦争でもおこれば、中国労働者の間に叛乱が生ずるであろう。
満州・中国における日本人社会とは鉄道線路の沿線と都市に限られ、それ以外の広汎な地域は中国人社会で、しかも中国共産党の浸透は効果的かつ顕著である。
・このような中国と向き合いながら、なおかつ日米戦争をはじめた場合、日本の経済力の消耗は一段と強化されるであろう。
・したがって、膨大な資源をもつアメリカと戦えば、せいぜい二年半しかもたないであろう。最後の報告者尾崎秀実の結論
 「日本はアメリカと開戦しても南方に進出し、敗退するか、あるいは戦わずして南方進出を断念するか、そのいずれかを選択するべきでしょう。しかし、私の見るかぎり、日本は南方に戦い、結局は退くでありましょう。」
 大村総裁は、散会後、尾崎を呼んで、「さきほどの意見を要路の人に伝えてくれ」と頼んだが、その声は真剣そのものであったという。新京経済調査室の阿部勇は、報告の内容を関東軍の黒川参謀に伝えた。黒川は、また、ありのままを東条英機に伝えた。この結果、黒川は東条英機の激怒を買い、南方戦線に転出させられて戦死した。

 第一回「欧州大戦と極東情勢」を受けた第二回「大東亜戦争の勃発と世界情勢」(昭和17年2月ごろ)の結論。
 「アメリカは日本軍の南方進出によって生ゴムと錫の補給に打撃を受けるが、アメリカの人造ゴムは需要の70%を充たせるし、錫はボリビアから輸入するから、結果的には打撃を受けたことにはならない。
 ドイツがコーカサスに進攻の重点を置いても、イギリスがイラン、イラクに兵を固めて、英ソでバクー油田を守る態勢に入るから容易ではない。
 日本の西南太平洋およびインド洋の制覇、ドイツの近東制覇に依り、ここにはじめて両国間に軍事的経済的共同作戦のルートが完成される。南方諸国の過剰物資はこのルートを通じてドイツにもたらされ、ドイツの南方開発資材は同じくこのルートを通じて日本に達する。欧州広域経済圏と東亜共栄圏とは近東において橋渡しされる。かかる日本の大東亜戦争の経済目標と相呼応してドイツの近東進出は必至と見なければならぬ。」
 
12、
 満鉄中央試験所長丸沢常哉(昭和12年就任 )
 課題
 ・石炭液化
 ・大豆油脂工業
 ・油母頁岩からの揮発油(オイル・シェール)の製造

 著者の一言
 アメリカやソ連の研究開発のような、壮大な軍事的要請を背景としないまでも、たとえば、「エントロピーの少ない社会」とか「生き残り」という視座はこれからの研究開発に用意されてもよいカテゴリーにならないだろうか。

 阿部良之「過熱気筒油」
 昭和15年8月1日、第一次世界大戦時のドイツ敗戦の原因のひとつが過熱気筒油であることにアメリカが気づき、戦略上の見地から対日禁輸。・・・昭和16年、製造試験完了。・・・昭和18年奉天で過熱気筒油の生産開始。

 昭和4年「撫順式オイルシェール乾留工場」竣工。日産四千トン。品質が一定せず昭和8年責任者自殺。
 阿部の精製方式が採用され、そのプラント工事がはじまったとき日本敗戦。

 石炭液化
 昭和11年石炭液化を「阿部方式」でやるか「海軍方式」でやるかの会議結果24対1で海軍方式に決定。
 昭和12年ふたたび会議。「海軍方式」を放棄し「阿部方式(満鉄方式)」採用。新工場員の平均年齢19才。多くは高等小学校か工業学校出身。
 昭和14年「阿部方式」による石炭液化成功。(阿部の出身校軽臼小学校に日本最初の「人造石油」が残っている)

 硬化炭
 満州とロシア国境ジャライノール炭層のほかに一億年前の木賊が炭化した30億トンの層があった。その燃料化に成功したあと。
 「阿部たちは、灯火管制の薄暗い電灯の下で祝賀の宴を開いた。誰の顔にも、「これで燃料問題のひとつが解決した」という安堵感があった。祝宴がようやく華やごうとしてとき、遠く近く爆発音が起こった。時に昭和20年8月5日、ソ連軍の爆撃が開始されたのである。やがて進駐してきたソ連軍は、まずジャライノールの練炭工場に突入、生産設備のすべてを持ちさった。その後、「硬化炭」についての消息は絶えて聞かれない。」

 満鉄中央試験所はついに「大慶油田」を発見することができなかった。・・・。
 終戦後、中ソ蜜月時代にソ連の技術者が探鉱に当たった。が、このとき彼らは中国側が「陸成層にある」と主張したことに耳をかさず、もっぱら「海成層」を前提として探鉱したため失敗に帰した。ソ連の技術者が引き揚げてまもなく、中国人自身が油田を発見した。そのときのリーダーは李四光で、日本とイギリスで地質学を修めた学者だった。

14,
 満鉄調査部の命脈は日本の敗戦以前につきていた、というのが関係者たちのほぼ一致した見解である。すなわち、昭和17年9月と同18年の二度にわたって、調査部から44名の部員や嘱託が「赤色運動」の容疑で検挙された。
 ・・・「満鉄事件」は、事件としてはまことに奇怪な事件であるが、「権力と知性」という関係から見れば、際だって特徴的な事件ともいえる。

 (満鉄事件の)予震ともいえる昭和12年「企画院事件」も「満鉄事件」も、問題は「事件」を構成する犯罪要件ではなく、国家権力が自己の論理を展開してゆくための思想的清掃作業であったのだ。そして、清掃されるべき″思想″の担い手たちは、多かれ少なかれ、次の大河内一男の洗練された要約を共通項としていたように思われる。
「日本の軍部が計画した膨大な戦争計画に対して日本の経済はこれを物的に担うだけの実力を持っていない、ということ、また近代戦は単なる精神力や観念論の教説を以ては賄い得ないこと、換言すれば、それは戦争遂行能力の経済的限界を超えたものだという点を指摘するための努力だった。」

 (昭和16年当時、)調査の方法論としては松岡瑞雄の「主客合一論」というのが出ていた。調査によって対象の中に客観的な法則を発見しうるが、それを主観(自分の内なる哲学)といかに一致させて表現するか、そこのところが重要だという見解である。

 昭和17年5月、東条は折から上京した大村総裁に「こんどは満鉄に手を入れますぞ」と警告した。・・・中西敏憲理事に呼び戻され総務課長になった北條秀一は・・・すぐ東京に飛び憲兵司令部の長伴総務部長を訪れ、「あなたの方にブラックリストがあるはずだ。見せてほしい」と切り出した。天長節の拝賀式を終え、午後11時、北條は位総務部長室でリストに目を走らせた。124名の名が連ねてあり、その84番目に北條秀一の名があった。
 ・・・しかし、多数の検挙者は出したものの、判事も検事も裁判には苦慮そのものだった。まったく荒唐無稽な証拠ばかりである。結局、松岡瑞雄と渡辺雄二が懲役五年(執行猶予五年)、二名が三年、ほかは一年(いずれも執行猶予つき)という結果になった。しかし、この間に、大上末広、発賀善次郎らが獄死した。守随一は昭和19年1月元旦に釈放され、北條の家に向かう途中、阿部病院の前で倒れ「ほーじょー」といいながら息をひきとった。栄養失調からくる肺炎であった。石堂清倫、石田七郎、渡辺雄二の三名は釈放と同時に軍に召集された。渡辺は興安嶺山脈でソ連軍と交戦中戦死した。

 敗戦後にソ連が進駐すると、ポポフという教授が日本語の達者な男女数人を率いて、大連図書館と満鉄調査部資料室の蔵書を一冊のこらず押収し、さらに大連と旅順の間にある営城子というゴルフ場の地下室に保管してあった膨大な調査書類も二台のトラックで持ち去った。



 『満鉄調査部』最終章の抜き書きを送ります。けっきょく二ヶ月ほどにわたる長々しい手紙になった。
 著者はなにひとつ結論めいたものは書いていない。
 もちろん自分にもない。  
 だから、若干の感想をのべて一応のしめくくりとする。
・日本が戦争をしないですむ方法があったのかなかったのかは勿論分からずじまい。ただ言えることは「坐して死を待つよりは」という発想は蟷螂の発想だ。あのころの日本はすでに蟷螂ではなかった。自分たちが思っている以上の大国だった。維新以来の自画像とロマンチックな虚像との大きすぎる乖離が一人の人間のなかで混淆していた。あるいは今もそうなのかもしれない。
・「現状では満州建国をやるしかない。」「現状では戦争に打って出るしかない。」が、半年後の状況下ではどうなったのだろう?そのまた半年後、周囲の状況はどう変わっているのだろう? 見えないものにいらついて、「エエクソ」と周囲の状況を固定化して考える発想は愚かしいだけだ。半年後どころか文字通りの明日もわれわれには見えていないことを2年8ヶ月前思い知らされた。「次」を予測しようと渾身の力を振り絞ることと、どんなことでも起こりうると覚悟を定めることは別のことではない。
・一度天才的発想をしたらそれを現実化してみたくなるのは平凡なことだ。その野望が山本五十六になかったとは思わない。ましてや石原莞爾は自分の発想に酔ったまま行動した。まるで子どもだ。そのうえ、この国には「抜け駆けの功名」という文化がある。失敗したら本社の知らなかったことだから実行犯に腹を切らせればいい。成功したらそれに乗っかかって攻勢に出る。
 が、その手は小国の間だけしか通用しない、いわば、匹夫の発想だ。
草柳大蔵の「『エントロピーの少ない社会』とか『生き残り』という視座はこれからの研究開発に用意されてもよいカテゴリーにならないだろうか。」という言葉には重みがある。が、じゃ、具体的にどうすればいいのか。考えるべきことは無数にある。
 「原発をなくす」という発想は、年間一万人ちかい交通事故被害者をなくすために車を廃止する、ということと発想法は同種だ。
 中沢新一の「農業や漁業の予測不能性が労働の動機をもたらす」ということばは美しい。しかし、ビジネスは農業や漁業よりはりかに予測不能性に満ちているという視点が欠けている。

 先日、授業の横道で「リアリスト・アラキの考え」と前置きして、「戦争をしたくなかったら金儲けをしろ」と言ったら、けっこう反応があった。「平和を唱える人と金儲けを憎んでみせる人とが一致しすぎる。それじゃ、社会はたちゆかない。」

 思いだしたことを付け加えさせてください。
 「ジャライノール」で思いだした。
 50前後のころ、ある人が新しい教頭として赴任してきた。父親は技術者として満州の炭坑で働いていたのだそうだ。敗戦後、中国側から「協力」を要請され、数年間働いた。「わたしはだから、向こうの小学校で現地の子どもたちといっしょに学びました。もう言葉は完全に忘れましたが。帰国後は小さな子どもたちといっしょに一年生からやり直しました。」ジャライノールはその時に知った地名だった。いや、○○ノールは多いから、あるいは勘違いしているかもしれない。
 家にもどったとき、その人の話を父親にしたら、「いい人に会えたね。」と言った。あのときの父親には正気が戻っていた気がする。