岡崎久彦1999

アジアにも半世紀の平和を
─二十一世紀に向けての日本の国家戦略─

                      岡崎久彦

 一九八九年にベルリンの壁が崩れてから十年になる。そして年が明ければ西暦二〇〇〇年代の世界に入っていく。
 ここではまず、日本がどのように冷戦終了後十年間の変動を生き延びたかを振り返り、今後二十一世紀の世界の展望、その中における日本の国家戦略を考えてみることにしたい。

 アメリカの戦略思想の変転
 
 日本にとって、最大の関心事は、一九九一年ソ連邦の解体でソ連の脅威が去った後、日米同盟関係にどういう変化が起こるかであった。
 事実冷戦終了後は、日米同盟についてのアメリカの考え方のブレは大きかった。
 ほとんど半世紀ぶりにアメリカはソ連の脅威の悪夢から解放されたのである。その解放感は想像にあまりある。
 アメリカにはもともとリベラルの伝統がある。
 リベラルとは何かと定義すれば、常に、世の中には今のものよりも新しい良いものがあるはずであり、人間の叡智と善意でより良い世界ができるはずだと思っていることであるという。それはそれで結構であるが、人間と国家の本性の中には千古不易のものもあるし、この世の中には善意だけでは解決できないものもあるということを認めようとしないのがリベラルの問題点である。
 それはさておき、リベラル的発想が、冷戦時代の同盟関係の代替物を求めたのは無理もない。それは必然的にリベラルな考え方である集団安全保障重視の傾向となった。
 他方、アメリカでも先憂後楽の士が、次の危機は何か、と身構えたのも必然である。ハンチントンが『文明の衝突』執筆前にその構想を私に語ってくれた時に、私から、『それは剣道でいう残心ですね』と言って、彼がわが意を得たという顔をしてくれたことがある。
 剣道で見事な一本を取った後、ガッツポーズなどしないで、静かに構えて次の敵に備える姿勢が残心である。
 ハンチントンは特に中国やイスラムが憎いわけではない。ただソ連を破ったあと、あたりを見まわして、目に入ったのが、中国とイスラムだったというわけである。
 じつは中国とイスラムの脅威を論じた『文明の衝突』を書く一つ前の論文で、ハンチントンがまず論じたのはいかにして日本の経済的脅威に対抗するかであった。
 当時アメリカは、冷戦最後の決着をつけたレーガン軍拡の余波で、財政と国際収支の双子の赤字に苦しんでいた。一九八九年にポール・ケネディが『大国の興亡』で過去に衰亡した諸帝国の例を引いて、このままでは米国も前車の轍を踏むと警告を発したことがあった。その時に議会の公聴会で対決したジーン・カークパトリックは、「それならソ連はどうなのだ?」と反論した。まさに、その年にはもう破産していたのであるが、アメリカも苦しかったのである。
 これに対して、冷戦が終わった頃、日本はバブルの絶頂期であり、二十一世紀は日本の世紀と言われた。日本はおごり高ぶって、日本の政治家はアメリカの労働者の勤労倫理の欠如を指摘し、また日本民族の単一性を誇って多民族国家アメリカを見下した発言をしたりしてアメリ国民感情の露骨な反撥も買った。一六七二年に英仏連合軍がオランダを攻めるが、その時のルイ十四世のメモワールには「オランダの許しがたい思い上がり」を戦争の原因として挙げている。
 九〇年当時、私は十七世紀のオランダ興亡史『繁栄と衰退と』を執筆、連載していたが、当時の日米関係はまさにその中の蘭英戦争の前夜のような雰囲気であった。
 英国とスペインが存亡を賭けて死闘している間、オランダは、英国の同盟国でありながらはしこく立ちまわって英国を凌ぐ繁栄を築いた。これに対する英国の嫉妬と報復がその歴史である。 当時のアメリカでは、ソ連の軍事的脅威が去った後は日本の経済的脅威だというのが、知識層の流行の認識だった。
 アメリカ屈指の戦略家であるルットワックが、これからはジオ・ポリティックス(地政学)ではなく、ジオ・エコノミクス(地経済学)だと言ったのもこの頃である。
 ハンチントンが書いた論文は『プライマシー(第一位)になることは何故重要か?』であった。アメリカは、経済を含めてナンバー・ワンの国でなければ指導的地位を維持できない。オリンピックと同じで、問題は記録よりも、金か銀かである。たとえマイナス・サム・ゲームであっても、勝った方がよい、という理論である。蘭英戦争の前のオランダいじめのための航海条例は著しい貿易障碍であった。その結果は「英国にとって不利益だったが、オランダにとっては破滅的だった(バーカー)」ということを正当化する理論である。
 もう冷戦は終わったのである。ソ連の脅威を前にしていたときは、日米ともに傷つくようなことはとうていできなかったが、アメリカの比較的優位を保つためにもうかまわない時代になっていたのである。

  日米経済摩擦

 一九八九〜九二のブッシュ政権時代でも、米国の風当たりはすでに強かったが、九三年からのクリントン政権の最初の二年半の日米経済摩擦は戦後の日米関係史上、最悪かつもっとも不毛なものだったといってよい。
 米側の論理は、単純かつ粗雑であった。
 今まで日本は自由化を進めてきたというが、対米黒字はちっとも減っていない──。ここまでは事実であるが、本来はこの事実から構造的要因の分析に入るべきところを、米側の論理は飛躍する。
 日本は、表面は自由化を言っても、裏では官僚の行政指導で米国製品を買わせないのだ。だから目標を決めて押しつければ、官僚が行政指導をして目標を達成させるだろう。これが結果重視主義、数値目標設定というアメリカの方針となった。
 自由経済の原則を無視しているだけでなく、日本国内の実情とは全く乖離しているyこんな認識の上に立つ交渉がまとまるわけもない。冷戦が終わって、冷戦時代の関係をすべて見直そうという雰囲気と、日本たたきが国民的情熱となっていた状況でのみなしえた無理難題であった。もし米側の圧力に屈して合意しても、それを実行する手段は日本側にはないのだから、一年後は食言として日米関係は破滅的となる。ハンチントンのプライマシー理論ならば、むしろそれでもよいということになるが、日本はたまったものではない。これを最後まで譲らなかった日本の交渉当事者は立派だったと思う。この交渉が続くにつれて、本来親米的な日本の財界、経済学者は皆交渉にソッポを向いてしまって日米関係は冷え切った。そしてUSTRの役人が外務・通産の官僚にガミガミ言うだけの不毛な交渉となった。
 しかもその末期の九五年の前半には極端な円高が発生したが、アメリカ政府は日本の窮境を救う機など全くなく、日本の輸出産業は潰滅に瀕した。もしあれがもう一年続いていれば日本経済への打撃はまさに破滅的であったろう。当時は、これこそ蘭英戦争前の航海条例と同じだと言われたほどである。
 日本がこの危機を凌げたのは、通信情報の発達と日本の情報重視の観念が進歩したことの賜だと言ってよい。
 蘭英戦争の前の英国議会におけるオランダ批判の凄まじさは、今読んでも戦争は不可避だと分かるほどのものであったが、オランダ政府はこれに全く注意を払わなかった。三百年以上まえの通信事情では当然だと言えるが、明らかに情報軽視の問題だったといってよい。
 というのは、それから三百年経っても一九七〇年のニクソン・ショックの時の日本は同じような状態だった。アメリカの対日雰囲気が悪いと聞くとミッションを出して要人に会って廻る。帰ってから、「アメリカは本当に怒っているらしい」と言うと、「そうかな」と言ってまたミッションを出す。そんなことを繰り返しているうちにニクソン・ショックが来たのである。
 もう、今は違う。議会で上院議員が対日批判をすると、夕刊にはもうそれが大きく報じられて日本は対策を講じるというようになった。クリントン政権の経済交渉はほとんど無理難題と言ってよかったが、日本は事の重大性を認識し、辛抱強くこれに耐えた。もし十七世紀のオランダが、これだけ情報を持ち、これだけ譲歩していれば、蘭英戦争はなかったであろう、と言えるぐらい日本はよく耐えて、危機を凌いだのである。
 かつて真珠湾攻撃をしてアメリカの世論全体を反日にさせたような考えの浅いことをした日本が、その後半世紀の経験によって、近代国際政治の独裁者とも言うべきアメリカ世論とアメリカ政治の現実をここまで理解し、これに対応できるようになったのである。このアメリカ扱いは今後も二十一世紀に日本が生き延びるための貴重なノウハウとなろう。
 もっとも、これは日本だけが遅れていたのかもしれない。ユーゴのミロシェヴィッチは、空爆で民間人の被害が相次ぐなかで、米軍捕虜を釈放して米世論にアッピールしている。太平洋戦争中、米軍飛行士を処刑して米軍の戦意をますます固めさせた日本とは、その米国の世論認識に格段の差がある。

  ナイ報告

 もう一つ日米関係を救ったのは、日米の防衛関係者間の信頼関係であった。
 日本国内では、自衛隊は目立つ存在ではないが、軍というものはどの国でも、国の体制、国の政治を支える一つの重要な柱である。日米同盟の下での軍の協力関係には半世紀の歴史があるのであるが、とくに八〇年代、中曽根・レーガン時代に始まった協力関係は日米間に強い絆を作った。
 大戦略の上でも、冷戦に最後の決着をつけたのは、米国が日本という自由陣営の戦略的リザーブ(予備資金)を有効に掘り起こしたことにあると言って過言ではない。ジム・アワーはつねづね、八〇年代の日米協力関係はヒドン・サクセス・ストーリー(隠れた成功物語)と言っている。大戦略だけではなく、陸海空全分野における日米共同演習の実施は、共に世界第一級の軍としての相互の尊敬と信頼の関係を作りあげていた。この二つの近代軍隊間の相互信頼関係は、現在日本が日米関係において有する数少ない貴重な財産である。
 クリントン政権の下での経済摩擦が悪化するにつれて、日米の、とくにペンタゴンを中心とする防衛関係者は、このままでは日米同盟が崩壊するという危機感を持った。
 もともとソ連の脅威がなくなったあとの日米同盟の存在意義については懐疑論はあった。
 それはまとまった論文の形ではなく、学者、評論家の発言の節々に現れ、同盟に代わるものとしては、同盟よりも集団安全保障を選好するリベラルな考え方の強調という形をとった。日米同盟についても、具体的な提案にまで至らなかったが、極東では、日米中露の四カ国条約で平和を守ろうというような考え方もあった。
 ハーヴァードの教授ジョーゼフ・ナイが、国防省の国際局長として赴任した当時は、まだこのようなリベラルな考えも持ったようであるが、実務に接するとたちまちに国際政治の現実を認識するとともに、部下の危機感を吸い上げた。
 ナイは、九五年二月の公式報告、いわゆるナイ報告で、冷戦終了後初めて、もうこれ以上アジアから撤退しないことを表明し、日米同盟の枢要な役割と地位を再確認した。またそのなかで、多国間取り決めは同盟を補完はするが代替しないことを明言した。そして、重大な影響をもたらしたのは、短い文章であるが、経済摩擦は同盟の基礎を揺るがしてはならないと述べたことである。
 その頃、日米交渉で日本がどうしても譲らないので──実際は譲りたくても譲りようがなかったのであるが──、同盟を切ると言って脅すしかないという論さえあった時であるから、この一言は大きかった。
 他面、背景はもう変わりつつあった。日本のバブルははじけ、米国は長期的好景気の局面に入っていた。交渉が始まったとき八フィートの巨人に見えた日本は、やがて六フィートに見え、今や五フィートの小男でしかなかった。またクリントン再選を賭けた大統領選も一年半後に迫り、日米交渉に何とか区切りをつけねばならなかった。そのため、五月米国側は、それまで得た譲歩を全部かき集めて、交渉の大成功を宣言して幕を引いた。そしてはじめて前向きの対話を許された両財務当局は早速連絡を密にして、円高もその年のうちに収まった。
 こうして、冷戦の終結がもたらした日米同盟の危機はようやく克服されたのである。
 九六年の橋本・クリントン会談では、ナイ報告の線に沿って日米同盟の強化が謳われ、具体的措置としては、新ガイドラインの作成、普天間基地の移転などが合意された。しかしその後、ガイドラインは日本国内事情のために関連法案作成が遅れ、普天間移転は、本来は人口密集地帯から他に移すという大田知事の要望にしたがったものであるが、大田知事が反基地反安保勢力の上に乗ったために見通しがつかなくなり、日米同盟関係に再び暗雲が漂うかと思われた。
 しかし、九八年末の沖縄選挙では、対米協調路線の稲嶺知事が選出され、ガイドラインでは自自公協調が達成され、小渕総理の訪米も無事に済んで、ここに日本は冷戦後十年間の変動期を生き延び、日米同盟もひとまず安定したと言える状況となった。ワシントンにおいて小渕総理が、日米関係は黒船以来最も良いと言ったのも、あながち誇張ではないかもしれない。

  ヨーロッパの平和

 さて、ここから二十一世紀へ目を向けて、日本はどうしたらよいのであろうか。まず、日本が冷戦後十年の日米関係に苦闘している間、外の世界はどうなっているかを知ることから始めたい。
 まず、冷戦の最正面だったヨーロッパはどう変わったのであろうか。
 共産主義イデオロギーの敗北は、各国内の政治思想の潮流の上ではたしかに大きな出来事であった。しかし、その勝負は、すでにその十年前についていた。サッチャーレーガン、そして中曽根政権ができた頃には社会主義思想は世界的に色褪せていた。社会主義の旗印である国有化、累進課税、計画経済は、民営化、消費税、自由競争社会の世界的趨勢にとって代わられていた。コミンテルン以来あれほど猛威をふるった国際共産主義運動などは、凋落して見る影もなくなっていた。
 それよりも、明々白々な変化は地政学的変化である。ピョートル大帝以来三百年間西へ西へと進出し、遂にオーデル・ナイセの線まで達していたロシアの脅威が、八九年には百五十年前エカテリーナの頃のヴィスラ河の線まで後退し、九一年にはもう百五十年前のドニエプル河にまで後退した。三百年間の前進が二年で元に戻ったのである。
これほど大きい地政学的変化が二年間で起こったことは世界史でも稀であろう。
 さらにヨーロッパで今世紀二度猛威を振るったドイツの脅威ももうない。二度の失敗はドイツ国民の間に強い平和志向を産んでいるし、それ以上に、米露英仏が核を保有してドイツだけが許されない条件の下ではドイツの軍事的脅威は再現のしようもない。
 ヨーロッパの課題は、NATOの維持と拡大により冷戦の勝利の果実をしっかり収穫し、あとは安んじて経済統合の深化と拡大に専念すればよいこととなった。

  不透明なアジア

 ここで先が見えないのがアジアである。ヨーロッパでは大戦争と言えるほどのものはあと半世紀はないと予想できる。あと三〇年経っても、NATOがどこまで拡大しているか、EUがどこまで深化、拡大しているかという程度の誤差の範囲であろう。 これに較べてアジアは変動要素がきわめて多い。
 朝鮮半島がソフト・ランディングするか、ハード・ランディングするか予想の限りでない。なんらかの形で分裂が続けば、その国際関係はほぼ現状の延長線の上で予想できるが、民族統一が達成されると、かつて歴史上存在した、自主独立、親中、親露、親米のすべての選択肢が理論上可能になる。
 極東ロシア、というよりもロシアの経済は今はどん底であるが、資源は豊かで技術水準も高いのでいつかは回復するのであろう。この前の革命(一九一七)の時は第一次五カ年計画の達成(一九三二)まで十五年かかって回復してきた。その例にしたがえば、革命後一〇年経って二十一世紀に入った頃経済成長を始め、二〇〇五、六年には回復することになる。
 極東ロシアは一九三六年に朝鮮民族中央アジア強制移住させてからは、ロシア内で稀な純粋なロシア民族居住地であり、ロシアはこれをロシア本土の一部として断固守るであろう。また歴史的には、極東ロシアだけで、中国や日本に脅威を与えうる潜在力を有している。国力を回復し、西方はNATOの拡大でふさがれているロシアの今後の動向がどうなるかについても不確定要素が多い。
 最大の不確定要素は中国であるが、これこそ今後の東アジア情勢、アジア戦略の中心課題であるので、それは後でより詳細に論じるとして、ここではまず、アジア全体について、大局的な判断を述べると次の通りである。
 まず、アジアとヨーロッパとでは状況が全く違うという判断から出発しなければならない。
「冷戦が終わったから、もう国境のない時代が来た」──これは今後半世紀、大戦争が予想されず、経済統合が進んでいるヨーロッパにはあてはまる。ただし、それはロシアの後退と核によるドイツ抑止という特殊な条件下によることはすでに書いた。
 しかし、「冷戦が終わったから──」という文脈の中でアジアにも同じことを言おうとするところから、あらゆる間違いが生じるのである。
 多数国間安保について、とくにこの誤りが甚だしい。ヨーロッパでは、CSCE(全欧安保機構)の下に、旧ソ連圏も含めて全欧が平和共存関係を作っているのは事実である。そこから、アジアもヨーロッパの例に従うべきだという議論が出てくるが、状況がまったく違うのである。「アジアの多様性」などというよりも、過去の経緯が違うのである。
 CSCEの発端は一九七五年のヘルシンキ会議である。ヘルシンキ会議の成功は東西間に妥協が成立したことによる。西側は、第二次大戦後にソ連が勝手に引いた境界線の現状維持(武力による不変更)を認め、東側は、人権の尊重、情報の自由を認めた。西側が譲歩しすぎという批判もあったが、国境が変わらないという安心感は、ソ連国内で体制改革の自由を促進した。マルタの会談でソ連が真っ先に求めたのはヘルシンキ合意の確認であった。現にベルリンの壁解体後も、ソ連邦解体後も、国境線はノータッチである。たしかに、ヘルシンキ会議は冷戦終了のお膳立てを作ったのである。
 しかし、アジアでは中国は台湾海峡の現状維持を認めようとしないし、朝鮮半島では、南北とも民族の分断の固定化は受け入れられない。
 もし中国が国境の現状維持も認め、人権尊重と情報の自由流入を認めれば、西側にとってそれほど結構な話はないが、中国にとっては一方的な譲歩であって、妥協ではない。
 そもそも信頼醸成とか軍縮とかいうことは、双方が、プロパガンダ、あるいはたとえ嘘であっても、平和国家だと主張しなければ成立しない。お互いに、自分は平和愛好国で、軍備は全く自衛のためだと主張するから、そこで、お互いの手の内を見せ合ってお互いに軍備を削減しようという話になりうるのである。
 台湾解放のために武力を捨てない、とか、「ソウルを火の海にする」とか言っている以上、たとえ透明性を達成してもそれは攻撃力の明示であって、守る側は対抗措置を講じざるをえず、軍拡の契機にこそなれ、軍縮や信頼醸成にむすびつかない。
 だから、ヨーロッパ的な集団安全保障や信頼醸成措置を導入しようとしても、アジアではほとんど形だけの真似事しかできない。中国に国防白書を書かせることに成功したのは、残念ながら、透明性の第一歩なのではなく、おそらくはその辺りが限界というべきであろう。

アジアのバランス・オブ・パワー
  
 東アジアの将来は予測困難であるが一つはっきりしていることは、それを動かす原動力は、中国にせよ、統一朝鮮にせよ、ナショナリズムであることである。ヨーロッパではナショナリズムの時代は去った──あるいは半世紀の休眠状態に過ぎないかもしれないが──としても、アジアはまさにナショナリズムの時代なのである。
 第二次大戦後のアジアは、ちょうどナポレオン戦後(一八一五年のワーテルローの戦い後)第一次大戦(一九一四)までのヨーロッパに似ている。
 十九世紀的偏見で言えば、アジアはヨーロッパより一世紀半遅れていると言える。たしかにアジアの産業革命がヨーロッパより一世紀半遅れたのは歴史的事実であるから、この偏見も事実として受け入れられよう。
 ナポレオン戦後一世代を経た一八四八年頃からヨーロッパが急成長を始めたように、アジアも一九八〇年頃から高度成長を始める。各国とも、人なみの高速道路、高等教育、ハイテク工場、近代軍備が欲しく、お互いに競い合って成長した。とくに、アジア諸国は過去の植民地、半植民地支配の屈辱に対する反撥から、ナショナリズムがそれぞれの国の最高のエネルギーとなっている。
 こうして主権国家がそのナショナリスティックなエゴを捨てようとしない状況においては、国際政治の最大の決定要因となるのは、十九世紀ヨーロッパと同じバランス・オブ・パワーである。
 しかも、東アジアの将来見通しは変動の幅が大きい。アジアのバランス・オブ・パワーは中国、統一朝鮮、復興したロシア、それプラス、インドとASEAN10という独立変数を含む多元方程式であり、それが予測をきわめて困難にしている。
 しかしその方程式の中で最大の値を持つのは日米同盟である。とくに海空軍の近代戦力では、その合計は他の力を問題にしない。また、この地域が必要とする資本、技術、市場は、日米両国を合わせればほぼ独占状態と言ってよい。
 したがって、この日米同盟が安定して鞏固であると、他の独立変数が動き回れる政策選択肢は著しく局限されて情勢は安定する。逆に、日米同盟の結束が緩むと情勢は不安定化する。まして、日本が独立変数になると、将来は全く予測不可能となり、どんなシナリオでも書けるようになる。
 日米同盟が鞏固ならば、統一朝鮮が自由民主国、自由経済国であるかぎり、日米同盟から離れることは難しいであろう。ロシアにしてもよほどの事情がないかぎり、中国と組んで日米同盟と敵対関係に入っても何の得もないであろう。インド、ASEAN10については、日米同盟が鞏固であるかぎり、これとの提携関係を外交の軸とすることには何の問題もないであろう。
 二十一世紀の日本の対統一朝鮮外交は? 対露外交は? と聞かれれば唯一最大の答えは、日米同盟の維持強化である。これは対中国外交は?と聞かれても全く同じことであるが、この点はさらに詳しく見ることにしたい。

  中国の将来 

 中国の将来についてはさまざまな見通しがある。
 中国の民度が向上していずれは民主化するという可能性もある一方、そうなると九一年のロシアのように中央の統制力が弱くなって分裂する可能性も指摘されている。反対に、経済が破綻して社会不安が醸成され、体制が崩壊して混乱状態に陥る可能性も指摘されている。
 ただ、いずれのケースも、パワー・ポリティックスにおいて「憂慮すべき事態」ではない。「憂慮すべき事態」とは、一国の力が増大して既存のバランスを崩す事態であり、一国の力が弱体化して力の空白ができるケースの場合は、それがいつまで続くかわからないのだから、周囲の国としては、じっと事態の成り行きを注視していればよいのである。
 われわれが正面から取り組まねばならないのは、現状の延長上のケース、すなわち、中国が国内的には一党独裁の中央政権を維持し、多少のジグザクはあっても経済成長は続き、軍事力もそれに応じて増大し、その対外政策はナショナリズムが最大の動機となっているような状態であり、これがまた、客観的見通しとしても、最も蓋然性が高い。
 ここでは結論に早く到達するために、中国情勢の一般論や枝葉の問題は捨象して、ズバリ最大の問題である台湾問題に焦点をあてなければならない。
 一つはそれが軍事バランスに決定的な影響を及ぼすからである。
 中国の軍事力が対峙する諸正面の中で、台湾正面が現状では最も手強い。したがって中国が台湾を制圧するに足る軍事力を持つということは──たとえば三百機のスホイ27を持つということは──南シナ海ベトナム、インド、中ロ国境を含む全近隣諸国に対する中国の軍事圧力の増大を意味する。また、そのミサイル開発は、直接間接に日米同盟にとっても負担となる。中国がそれは台湾解放のためと言っても、周辺諸国との軍事バランスに影響を与えざるをえない。
 アジアにヨーロッパと同じ半世紀の平和をもたらすのは何でもない。中国が台湾に対する武力不行使を宣言すればよい。そうなれば、信頼醸成措置として、軍備や演習を公開して透明性を確保し、その上で軍備管理に入って、台湾海峡両側の攻撃的兵器を削減すればよい。これがまさにヨーロッパに緊張緩和を実現し、永続的平和の基礎を築いたプロセスである。
 これができればアジアの情勢は一変する。現に日米両国は台湾問題の平和的解決を主張しており、これを中国に受諾させる外交的努力は今後とも続けるべきであろう。
 しかし、現状では、中国は武力行使を放棄しないと明言している。そして今後ともこの態度を変えない蓋然性が高い。その場合どうなるか、どうするべきかということである。

アメリカのアンビグィティ

 アメリカの出方はわからない、というのが最も客観的かつ妥当な見通しである。これだけ大きな問題となると、アメリカン・デモクラシーでは結局は世論の決定を待つことになるが、世論の動向を前もって知るということが不可能だからである。
 自由民主主義国台湾の存立が脅かされた場合、米国の世論が同情的であることは百パーセント間違いないが、それを守るためにアメリカの若者の血を流せるか、ということになると、その時の状況──端的に言えば、どちらが善玉でどちらが悪玉としてプリゼントされるか──などすべての要素がからんでくる。
 従来アメリカの専門家、戦略家の間では、このアンビグィティを政策として用い、それをもって中国の行動の抑止力とするという考え方があった。
 それに対して、九八年のクリントン訪中の前には、そのアンビグィティの一部をなくして、台湾の側から独立宣言をして挑発した場合にアメリカは台湾を守らないことを宣言しようという動きがあった。
 それが九六年六月のクリントン訪中時の三つのNOの発言となるのであるが、クリントンが帰国するが早いか、米国議会は、上下両院それぞれ満場一致でそれを否決する趣旨の決議を採択してしまった。
 米国の国会議員が誰一人賛成しないような発言は、行政府が実施したくても実施できるはずはないから、アンビグィティはまだ厳然として生きているわけである。
 それよりも、むしろ、九六年の台湾海峡事件時の米国の反応を考え、今回の米議会の行動を見ると、三つのNOというような考え方はごく一部の親中派の小細工であって、アメリカの世論の大勢がいざという時に台湾側につくということにはほとんどアンビグィティがないと、少なくとも現時点では判断せざるを得ない。
 ということは、中国が現在の政策を変えないかぎり、米中は衝突路線を歩むことになる。 
 その場合日本はどうすればよいのだろう。ここでもう一度大局論に戻れば、日米同盟さえ鞏固ならば、この危機は乗り切れる公算が大きく、また、どう転んでも日本の安全と繁栄は守り通せるであろう。

 軍事バランスの微妙な変化

 より具体的に分析してみると、中国の軍事力は年々増強される。それは米国の軍事力全体との比較においては、まだまだ問題とするに足りない程度であるが、それにつれて、中国周辺の軍事バランスが少しずつ変化していく。それが問題なのである。
 最も分かりやすいのは、九六年の台湾海峡事件が、二〇〇四年の台湾総統選挙の頃に再現されることを想定すればよい。その時に再び、中国がミサイル演習をするとすれば、その時点では中国のミサイルは質量ともに格段の改善が見られ、脅迫の効果は大きいであろう。
 これに対して二個空母機動部隊の示威だけで十分な効果があるかどうか分からない。場合によっては、大陸のミサイル基地攻撃の姿勢を示す必要があるかもしれず、また、それまでに増強された中国近代戦闘機群に対して、空母二隻だけで、空軍バランスの優位が保てるかどうか分からない。
 そういう変化は、解決不可能な問題ではない。空母を四隻に増やすとか、沖縄の米軍のF15出動を命じてもよい。しかし、こうした段階的な事情の変化ごとに、米国は小さなハードルを越えねばならず、それが米国、日本両方の内政・外交上の負担になっていくのである。空母を二隻から四隻に増やすのは、常備態勢から準戦備態勢への移行となるし、沖縄の基地使用は日米安保条約の問題となる。

  日本はどうしている?

 こうした微妙な変化が年ごとに累積して、そのつど対応に追われるのが二〇〇五年頃からあと十年間二十年間の東アジア情勢だと想定できる。
 ここで日本の態度が問題になる。アメリカがハードルを一つずつ越えねばならないごとに、「同盟国日本はどうしているのだ?」という疑問が世論、議会の中で提起されることは必然である。これに対応できるかどうかが、現在一応安定状況に入った日米同盟を二十一世紀に維持できるかどうかの最大の問題点になるのである。
 日本の近代的海空軍戦力は強大である。
 日本の防衛力は、長い冷戦時代不十分だったのが逆に幸いして、西欧諸国が息切れしてしまった八〇年代初めに本格的に計画が立てられ、その後の八〇年代の経済好況に支えられて順調に実現されて、現在それが九分通り完成している段階にある。したがって、現在は先進国の中でも最新最強の正面装備をを保有し、この日本の比較優位は二〇〇〇年代初めの十年は続くであろう。「日本再軍備の脅威」に言及する外国の論者は今でもいるが、日本の軍備はハードウェアに関するかぎり今の計画で十分強く、増強の必要はない。ただ、中国のミサイルの増勢に備えて、TMD配備の追加だけを考えればよいのである。
 極東軍事バランスの最も不思議なところは日本の国内的制約によって、この日本の強大な軍事力がゼロに計算されていることである。計算に入っているのは、今回のガイドライン法案で明確になった極東米軍の後方支援分だけだと言ってよい。
 米国の世論が常に気にすることの一つは、米国が行動する場合、国際社会とくに関連地域の諸国が米国の行動を支持し、これと協力するかどうかである。
 日本の事情を知っている専門家、官僚は、日本が国内事情で動けないことは知っているし、また、それをどうにかしろということは国内事項干渉になるので、決して言わないが、一般の国民世論は同盟国日本の全面的な協力を当然のように期待している。この期待に反した場合、日米同盟の信頼関係がたちまちのうちに失われる危険は常に存在している。
 戦後の日本の国民感情は平和主義である。それは真珠湾前の米国、ミュンヘン前の英仏の反戦主義に比肩すべきものである。
 冷戦末期、ソ連の脅威の頃は、日本は防衛のためには戦うコンセンサスがほぼできた。しかし、今後とも、日本が韓国、台湾の防衛のために出兵する政策を意図的に取ることはありえないと断言してほぼ間違いないであろう。 ただ唯一の例外は、それは同盟を崩壊から救うためである。米国の若者が朝鮮半島で毎日何百人と死んでいる時に、新鋭戦闘機三百機を持つ日本が、米国の要請にもかかわらず一機も飛ばさない場合の米議会の反応を考えると、その場合こそ日本は決断を迫られることになろう。
 また、それは日本に限ったことではない。冷戦時、ソ連軍が何万人のドイツ人を殺そうとも、英国は一人の英国人も犠牲にする気もなかったであろう。しかし、出兵しないでNATO条約の義務、はっきり言えば英米間の条約の義務を怠れば、それは将来の英国の破滅につながりかねない。だから、英国は、核全面戦争の危険を冒しても参戦するのである。
 二十一世紀に、日本の存立に関する危機があるとすれば、唯一、最大のものは、極東有事の際に日本が処置を誤って、同盟国日本に対する信頼が米国世論によって問われる時であろう。これを切り抜けられるかどうか、そして、望みうべくんば、平時から、有事の際は米国民の期待を裏切らないという保証と信頼感をかち得ているかどうかが、日本が生き延びるカギである。
 ここで日本の集団的自衛権の行使が問題となる。戦後五〇年間の長い長い中世的とも言える因循さと実体のない論理の積み重ねで成立した神学的議論は、ここで改めて論駁する暇もない。要は、日本は集団的自衛権を持っていながらその権利を行使できないという無意味な答弁をやめて、今後は集団的自衛権はあるがその行使にあたっては憲法の精神上慎重の上にも慎重を期します、と答弁すればよいだけの話である。

アジアにも半世紀の平和を

 そこでどういうことになるかというと、今までゼロだった日本が東アジアの軍事バランスの計算に入ってくるということである。
 台湾海峡の危機に際して日本が自動的に参戦することはあり得ない。その時の状況、米国の世論の動向などを考えて、慎重の上にも慎重に対処することになろう。おそらくは実際に参戦することはまずないであろう。それでもそこに、日本の行動についてきわめてアンビグィティが生まれるのである。
 中国がこのアンビグィティを意識せざるを得なくなると状況はまるで異なってくる。時と場合によっては、日米同盟と正面から対決する可能性が、いかに小さくても存在するとすれば、それは中国にとっては、真珠湾攻撃と同じような、或いは、冷戦時のソ連の西欧への進撃と同じような存亡を賭した決断を必要とすることになる。武力による解決があり得ない、という状況ができれば、日中両国の国益の調整、さらに進んでは日中友好関係、協力関係もおのずと進展しよう。バランス・オブ・パワーの目的は、キッシンジャーの定義によれば、「あらゆる問題について平和的解決以外あり得ないという状況を作ることにある」のである。
 現在、東アジアの軍事バランスは二〇〇五年前後から徐々に変化すると想定されるが、日米同盟全体を考慮に入れざるを得なくなると、それはもう一〇年は先延ばしになるであろう。
 危機があと十五年後ということならば、別の戦略も考えられる。
 かつて一九六二年、ソ連キューバにミサイルを持ち込もうとして、ケネディに一喝されてすごすご引き下がった。軍事的実力があまりにも違いすぎたのである。
 その後ソ連は営々として軍拡にいそしみ、七〇年代末には米国にほぼ追いつき追い越す形勢となった。しかし、もうそれで経済的に息切れして、八〇年代には自ら崩壊した。
 中国はロシアより賢いであろうから、そうなる前に競争をあきらめるかもしれない。もしそうなれば、アジアにも、ヨーロッパと同じ半世紀の平和が訪れることになる。
 それは不可能ではない。一九二二年に日本は米英との間に戦艦の比率を五:五:三とする軍縮を受け入れた。実は、日本では第一次大戦のブームも去り、そのまま建艦を続けるともう翌年の予算を組むのも困難な状態になっていた。こうして、その後真珠湾までの平和が維持されたのである。
 つまり、日本が、集団的自衛権の行使について過去の愚昧な発言を繰り返すのをやめるだけで、日本の政策にはアンビグィティが生まれ、アジアの平和は、もうあと半世紀保障されるのである。

 最後に、この日本の政策をアジア諸国にどう説明するかという質問が時として提起されるので、それに一言する。
 まず、アジアという言葉の中に、本質的な誤解のもとがある。この政策に中国が反対し何とか妨害しようとするのは当然である。そこで、中国は関係当事者であるから、これを除くと、あとはアジアと言ってもほとんど実体はない。あるとすれば、九二年頃以来、とみに中国の言動と歩調を一つにしているシンガポールの華僑系言論ぐらいであろう。それ以外、とくに東南アジア諸国は、むしろ内心は、中国の影響力とバランスするものを欲しているので、反対はあり得ない。
 ただ、日本とアメリカの腰が定まらないうちは、中国の意向を忖度して曖昧な表現を使うことはあり得るが、日本の方針がはっきりしてくれば、結局は支持することとなろう。
 日本が集団的自衛権を行使するのは、日米同盟の維持のためであり、それ以外に使うことは理論上も日本の国民感情上もあり得ないという実態が認識されれば、反対する理由はどこにもあり得ようもない。
 その理解が徹底すれば、アジアの平和の構造は東アジア全域を含めてますます揺るぎないものとなろう。