加治木剛

今月の詩                   2014/06

 例によって、思い出話からはじめます。
 題名も作者も忘れましたが、中学生のとき読んでいた本の中で、何ごとかをなそうとするのを躊躇(ちゆうちよ)する仲間にむかって、ある登場人物が「僕たちはコペルニクスを生んだポーランド人なんだぞ。」と励ます場面がありました。「ガリレオ・ガリレイの前にコペルニクスがいた。」私にとっての地動説との出会いはそんな格好で始まりました。ただしそれは、当時の私にとっては、たんに科学的発見のひとつであって、高校に入って「コペルニクス的転回」という言葉に出あった時は何のことだか戸惑った記憶があります。
 「地動説」のガリレオ・ガリレイのあと、「万有引力の法則」のニュートンより前に、デカルトが現れました。高校の教科書で知ったことなのですが、かれは「我思う。ゆえに我あり」と言いました。その説明に、「すべてのものを疑ったあと、その疑っている自分の存在だけは疑いようがない、と考えた」とありました。――そんなバカな話はない。すべてを疑うのならその自分の主観も疑おうとすれば疑えるじゃないか、そんなのはただのまやかしだ。まやかしの上にどんなものを構築してもそれはただの虚構だ。――高校生の私の考えたことはおそらく正しかったと思います。と同時に、なにも分かっていなかったとも思います。教科書をつくった当時の大人たちもまたそうです。

 デカルトは自分の存在を疑うわけにはいかないと考えました。それは、かれの意志でした。決断でした。自分がすべてを、世界を客観視しようと考えたからです。ちょうどガリレオが宇宙を観察したように、デカルトは世界を観察したかったのです。ガリレオが「ほんとうに太陽が地球を回っているのか」とのぞき込んだ望遠鏡を疑わなかったように。たとえば私が絵を見ているとき、その絵を見ているということ自体を疑いはしないように、デカルトは自分の眼を疑うことはできませんでした。だから、かれの言葉は「私は見ている。この見ていることを疑うわけにはいかない」と解釈すべきです。と同時にこれはひどく奇妙なことでした。
 なぜなら、世界を客観視しようとしているデカルトは世界の内部にいるのではなく、世界からはみ出してしています。デカルトはグランドにいるのではなく、グランド全体が見渡せるスタンド席にいます。グランド外の席にいて審判をやろうとしているようなものなのです。「ストライク」「アウト」。「オフサイド」「インターフェア」。「退場!」
 グランドの選手に向かってイエローカードやレッドカードをスタンド席から差し示す審判。
 デカルトの世界は、本来かれの前後左右上下にあるはずなのに、かれが観察可能なように前面にのみあるのです。かれの世界はちょうど映画館の映写幕のようになっていました。それもいっさいの陰がない、いわば平面展開図のような状態で。
 一方、かれのことばはまた、神学的世界、つまり、キリスト教哲学からの独立宣言でもありました。それまでの考えでは、人は他の動物や植物と同様に神による被造物であり、造物主のつくった世界のなかで安住していました。つまり人間もまた他の生きもの同様に世界のなかの一部分にすぎなかったのです。だからこそキリスト教神学では人間にだけは魂が必要でした。デカルトの言葉はその造物主によって作られた世界からの独立宣言でもありました。
 かれは意識していると否(いな)とにかかわらず、わが身にはりついている世界を、自分の皮膚をはぎ取るように引きはがし、根限(こんかぎ)りの力を尽くして、独力で自分にまつわりついている世界のすべてをメリメリバリバリと引きはがし、目の前に平らに張り付けたのです。以後、自分を世界に属さない存在と考えた人間と世界とは、実に奇妙な関係に陥(おちい)りました。
 関係がないものを見ることは私たちにはできません。(私に言わせると、私たちはそのように造られているのです。)客観化するとは無関係になることなのでしょうか? それとも、より緊密な関係になることなのでしょうか?
 が、同時に、この被観察物、被認識物である世界と、観察者であり認識者である人間との構図は、科学の、あるいは科学技術の飛躍的発展のきっかけをもたらしました。何かを観察したかったら、人間が観察しやすい構図をつくればいいのです。自然界ではなく、実験室という世界を人間が作ればいいのです。試験管という人工的世界、シャーレという切り取られた世界、プレパラートという極小世界をつくれば、人間は自分の見たい世界だけを、いくらでも好きなだけ客観的に観察することができるのです。
 この構図は、その後の生産技術の急激な発展にも大きく貢献しました。台の上にすべての部品をならべれば、それを組み立てていく行程が全部見えるようになるのです。この発想はさらに、最初に土台(シャーシ)をつくり、その上で部品を組み立てれば、そのまま台ごと完成品になるという新しい技術(いや、これはもう技術思想と呼ぶべきです。)をも生み出しました。
 しかし、この、世界からはみ出ることで独立を手に入れた人間はただの赤裸(あかはだか)でした。あまりにも孤独でした。
 18世紀を生きたエマニュエル・カントは、この人類があらたに獲得した自然科学的哲学――人間観であり世界観。それは人間が、自分の内側と外側にある世界を自分の意志で追放して獲得したものでした。――に危機を感じ、世界を認識しているはずの人間の理性がはたして造物主から独立した純粋なものであるかどうか(『純粋理性批判』)を徹底的に検証しました。そうすることで、人間をもう一度造物主の庇護(ひご)のもとに戻そうと密(ひそ)かに考えたのです。
 が、芸術界においてこそ大きな影響を与えたかれの思索は、「科学的に」という思潮の速度ををわずかに滞(とどこお)らせただけのように感じます。

 19世紀、幕末から明治にかけてのマルクスは、この「世界からはみ出た人間」のイメージをかりて疎外とよび、社会の成員として認められない人間たち、そして「人間的」とよべない人間たちのありかたとして用いました。デカルトにとっては自らの意思と力で成し遂げたことが、そこでは逆に自らの意思に反して、自らの力及ばずおかれた状況になったのです。この「科学的」な世界と人間の見かたは、資本主義と帝国主義が猛烈な勢いをもっていた時代に多くの人々に受け入れられ、世界史を動かす力を与えました。しかしそのベクトルはその時代にあっては正には向かわず、負の方向にばかり働いた観があります。
 でもいま振り返ってみると、ことの功罪(こうざい)を決めつけるにはまだまだ時間が足りないのではないかという気がします。それが「近代」というものなのです。
 
 期末考査文学史範囲は、そういう、いわば激動の時代のイメージを君たちに伝えたくて作ったけっこうな労作だったんですよ。

 今月はここまで。
 6月の詩を載せます。






       六月の詩    加治木 剛

    私の心の隙間(すきま)に
    六月の風が吹いても
    あの夏はやってはこない
    かなしみを殺したままに
         笑いながら通りすぎていった
         なまぬるい六月の風
    夏を待つ都会の静けさ
    渦を巻く鬱(うつ)な気分
    喘(あえ)いでいる私の自由を
    掴(つか)みとれるのは あなたじゃない
         去年の夏のままに   
         私はしゃがみこんでいる
         私の夏は続いている